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川村さん宅へヒアリングへ伺った際、「活動休息日」にお茶のみに集まっていた皆さんを交えてさまざまなお話しをうかがいました。皆さんの承諾を得て、『3.11あの時レポート特別編』としてご紹介させていただきます。 ■川村久美さん(NPO法人いしのまき環境ネット 理事兼事務局) ■相沢健一さん ■毛利壯幸(まさゆき)さん |
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【毛利さん】家が川のそばにあり被災した。ボランティアさんにすぐ入っていただける状況ではなかった。まず家の人が少し整理して、ボランティアさんが機能しはじめたころに、来てほしいと申し込みをして来ていただく日を待つという形だった。通りにはたくさんボランティアさんたちが歩いていたので、おかげで気持ちの部分では孤立感に陥ることはなかった。不思議な現象で、ある日突然状況が変わったことによる一種の「共同体感情」が生まれていた。皆同じような痛みを受けているから、それだけで仲間というような。これまで挨拶したことのないような3軒隣のおじさんとあいさつや会話が生まれた。物資の配給ではこれまで作られていたコミュニティが機能したんだろうけれども、今思うとある種の共同体感情というものが、ボランティアの人の中にも生まれていたんだろうなと思う。彼とはおそらく二度と会わないのだろうけれども、おはようとあいさつを交わしたり。気持ちの位置するポジションが皆一緒だったのかな。助け合わなければならない、というのはありました。1人じゃちょっと怖いなという気持ちも働いたのだと思う。 【相沢さん】僕の住んでいるところは比較的新しい町なので、それほどコミュニティはできていないと思う。外で会ってもほとんど話さない。けれどもあの時は、顔を合わせれば「水あるの?」と声をかけあう状況があった。 【川村さん】皆優しくなれた。お互いを思い合って、「大丈夫だった!?」「食べれてんの!?」という会話をしやすい雰囲気でもあった。 【相沢さん】ボランティアが入ってきたのは水がひいてからのことだった。水があるうちは入りたくても入れない状態だった。道路事情が整った時点と、町中の水がひいたくらいに自衛隊が入り、道路の整備を行い、その後ボランティアが入ってきた。 【川村さん】はじめは、食べ物の次には「道」だった。被害のひどい地域の人達は、ちゃんと来てもらえるように自分たちで道路を整えた所もあった。それは海の方の漁師の人達。普段同じ浜で漁をしている人達の絆ってすごいよね。道路を作ってからやっと自衛隊が来れるようになって、ボランティアが来れるようになったというのを話している人がいた。ここは自衛隊が通れないから、物資がこない。だから取りに行かなくちゃいけないんだといってひたすら自転車をこいで行くような状況もしばらく続いた。当初は「ボランティアさんありがとう」という気持ちがあったけれど、今は気持も変わってきて「やってもらって当たり前」というありがとうの気持ちも忘れてきつつあるような話もよく聞くようになってきた。あとは「ボランティアを要請してもさっぱりこない、もう!」という不満も逆にたくさんあった。 【相沢さん】同じ場所でもいろんなレベルでいろんな被害がある。ある地域では、建てたばかりの家が津波被害を受けたけれども、直せば使えると大工さんに言われた。ところが周りの家がみんな引っ越してしまった。そのエリアの中で一軒だけぽつんと残ることになってしまう。そこに住み続けるのか。果たして直して良いものか。 【毛利さん】さまざまな、考えなければいけないことがある。ウチの自宅も、ここに住んでいるけれどもこの場所でいいのかしら、と考えてしまう状況もある。まだ僕の同級生には子どもさんや親が見つかっていない人もいるが、その対応も継続してもらいつつ、今後は生きている自分たちの未来に向けて、どういったことが起こるのか、少なくとも予想できることに対しては対応策を考えられる人・考えるべき人で考えておいてほしい。【相沢さん】亡くなった方の捜索とともに、生きている方の捜索も必要になってくる。孤立している自宅避難者は多い。 【川村さん】市で発表しているリストとは本当にかけ離れた数字があがってくるのでびっくりさせられる。避難者40という発表に対して、実際に問い合わせてみると「いやいや、おら方は周辺の自宅避難者混ぜると300だよ」なんていうこともあった。 自宅避難者はまったく把握されていない状況。そうした行政の援助からもれてしまっている人達に対して私たちが支援の手を差し伸べられるような活動をしていきたい。あんまりにも膨大だからくじけそうにもなるのだけれども。こんなに広域だから、ここだけに行ってもいいのかという迷いも生じるが、そこはある程度妥協しなければ進んでいけないと思う。 【相沢さん】自身も被災して自宅も大規模半壊ということになっているが、次の石巻の姿ができあがっていく、その時間と現場にいられることにすごくわくわく感がある。自分たちの動き次第でどうにでもなっていける。何年か経って、2011年の震災の後にこう変わって行ったと歴史の中に残るだろう。何かの運命でここにいる自分を、どう活かしていくか、自分がそれにどう関われるのか可能性がすごくある。具体的に町をどう整理していこうかということに関して発言力はないけれども、自分たちのこれまで積み重ねてきた経験やつながりを今こそ活かすべきなんだろうなという話しを皆といつもしている。【毛利さん】今だからこそ、3.11以前に行っていた夢物語のようなことをもしかしてやれるんじゃないか。 【川村さん】これまであった何かが無くなったことによって、またそれをやり直せるチャンスをもらった。 【相沢さん】コミュニティの一体感は緊急時にはあった。ところが日常に戻りつつあって、買い物も普通にできるようなるとまたその部分がなくなってきた。 【毛利さん】いつまでも共同体意識は存在し続けないということもわかった。「おはようございます、良い天気ですね、今日は何の作業ですか」というところまで踏み込んでいた会話が、最近は会釈程度になった。自分自身もそう変わってきていると感じている。 【相沢さん】可能性のあるこれからの将来の町づくりを考えると市場や行政システムに依存しきるのは危険だと思う。ウチの界隈でもファミレスなどがなくなり、井戸端がもうなくなってきている。これは皆が集まって会話できる場所を新しく作るチャンスなんだろうな。 【毛利さん】一瞬でも形成されていた『共同体意識』の不思議な一体感をまだ皆どこかには持っているので、それがすっかり消え去らないうちが、何かしらの新たな町の中でのコミュニティを作って行くチャンスでもある。 【相沢さん】それは多分、開かれたコミュニティでなければいけない。あまりコミュニティ意識が強すぎると、今度は外部から来た人が入れない。たとえば、物資を配るところでもそういう現象があるところとないところがある。「いいから持ってかぃん」という所もあれば「あんたウチの地区の人でねっちゃ」と断る所もある。これから家を失った人達がもしかしたら入ってくるかもしれない。そこのコミュニティを新たに作り直すチャンスでもある。 【毛利さん】1人ひとりの気持ちのありようが求められる部分でもあるので、なかなかすぐ良い形にはならないだろうなとは思う。震災を受けた地域は、日本だけど日本ではない価値観を作るくらいのタイミングでもあるよね、というような話をある人としていた。【川村さん】今回の『人間力』はすごいよね。たとえば、一度こんな風に話し合いの場を過去に持ったことがあるだけの繋がりの人が、心配して仲間をつれてきてくれた、という話しをたくさん聞く。一期一会を大事にしていくと、何か別なものが生まれうるんだなと実感させられた。声をあげることによって良いサイクルがどんどん生まれるなというのも体験させてもらった。声をあげていくことを皆で忘れないでほしい。どうせダメだ、どうせできない、っていう人たちのことを「ちょっと待って諦めるまえにさ、」と支援していきたい。 |
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| (取材日 2011.5.29 鈴木) |
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