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| ■3月11日 14時46分 | |||||||||||
【女将】当日は法事、お祝いの会の予定があり宝来館でお客様の接客をしていた。2日前にあった地震とは違い、記憶にある宮城県沖地震とも違うと感じた。「三陸沖地震が近いうちに来るぞ」と言われていたこともあり、今日がその日なのだと直感した。揺れがおさまった頃に娘が荷物を取りに自宅へ行ったが、「もうこの家を見るのはこれが最後かなと思った」と言っていた。そうした直感を働かせるような、あるいは感じさせるような揺れの大きさと長さだった。【番頭】あの揺れで大きな津波が来ると思い、自分の車を諦めた。10年乗っていたので愛着がある車だったが、今日で終わりだなと思いながら山を登っていた。 【女将】津波の到達は地震発生から30~40分後のこと。宝来館は避難ビルだったが、4Fまで上がるということを思いもしなかった。ビルに逃げる揺れではなく、山に逃げなければいけない天変地異が起きたのだと直感した。 一度山へ登ったが、集まってきた地域の皆さんは宝来館に留まっていたので、スタッフが迎えに行った。間にあわないから呼んでこようという思いで体が動いた。この時の映像が放映されテレビでは「住民を助けに行った」と美談として語られたが、本当はしてはいけない行為だ。「津波でんでんこ」と言って、津波の時は自分で自分の命を守れという言い伝えがある。人を助けたり物を取りに行く行為は皆に迷惑をかけることだから、津波においてはやってはいけない。戻った人は皆のまれてしまう。あの時は私も考えが甘く戻ってしまった。幸い助かったけれども、そうした行為をした人は皆亡くなっているかもしれない。だからあれは美談ではない。本当はしてはいけない行為だった。逃げると思ったら逃げなければいけない。それが津波だ。自分達のまにあうという予想、大丈夫だという思い、そんなレベルではないのが天変地異。人間の予想など当たらない。今日はその日だと覚悟していたが、実際はそれ以上だった。 結局山へたどりつく一歩手前で波にのまれたが、その瞬間は怖いとも思わなかった。あっけにとられてのまれて、気づいて苦しくて浮かび上がって助かった。ただただ生きたいという思いで必死で、恐怖感を味わう暇はなかった。怖いと思ったのは落ち着いてからだった。 【番頭】本当に何がなんだかわからない状況だった。怖いと思う間もなく「とにかく逃げなきゃ」とパニック状態だった。自分がケータイで撮っていたあの映像を出すつもりはなかった。ただ逃げ惑っている姿なので、こんな映像はどうということもないと思っていた。たまたま1つ下の後輩にカメラマンがいて、映像を使いたいと打診があった。自由に使っていいと返答したところ、そのまま放映されてこちらが驚いた。その後、誰かがYou Tubeに載せたようだ。そこにたくさんのコメントが付き、再生回数は300万を超えた。後から色んな人の話を聞いて、シチュエーションも撮り始めたタイミングも奇跡だったなと思う。 映像の中で歩いていたのは地元の人だ。あそこが一番高く、今までに波があがってきたことはない。地元の人はそれをわかっているから、宝来館まで行けば助かると思っていた。だから「早く逃げろ」とさんざん言っても、「しょうがない、女将が言うから行くかな」ぐらいの思いしかなかった。山へ登る道は人1人が通る幅しかないため、逃げる人で連なっていたが皆呆然と目の前の光景を見ていた。覚えているのは、女将の一番下の娘さんが「お母さん、お母さん」と叫んでいたこと。それで女将がのまれたのだとわかった。ぱっとみたら、1人しがみついている女性が見えた。隣のたばこ屋のおばちゃんだった。慌てて山を降りてひっぱりあげたが結果的に足を骨折していた。その後は一度山の上まで逃げて、火をたいて凌いでいた。 【女将】寒くて凍えて、波にのまれた人達がこのままだと死んでしまうというくらいに衰弱していた。宝来館の4Fに逃げた人が、このままだと凍え死ぬから降りておいでと呼びに来たので、山を降りることにした。 |
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| ■運命共同体 | |||||||||||
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私たちは外で炊き出しをしていた。毎日道路を通る人達も何も食べていない。最初の頃はおにぎりや飴をあげていたが、「そんなことをしていたら皆の分がなくなってしまうからやめて」と言われてしまった。皆で生きる共同体をしながら、家族を探さなければいけない。けもの道を5時間も6時間も歩いて山越えをして家族を探し歩いた。それも日が暮れないうちに移動しないと、真っ暗な中を命がけで帰ってこなければいけなかった。2日目の夜からは24時間火を焚きっぱなしにした。真っ暗中歩く人達の目印になるように。 飲まず食わずでこの山を歩き通している風の自衛隊さんも通った。どのくらい歩いているのかを聞くと、十何時間と答える。飴玉1個しかないけどと差し出しても受け取ってはくれなかった。いいから飲んでって、食べてってと言っても絶対に受け取らないその姿に、涙が出た。 3日目、明日からのお米がないと言われてしまった。それで午後にお米を探しに出かけることにした。ところが市役所や避難所、どこにもお米がなかった。歩く中で行方不明の子ども達にも会い一緒に歩かせた。帰り道、消防の屯所に寄った。宝来館には100人の人が避難している。褒めてもらえるかと思ったら、屯所は暗く沈んでいた。「米はないけど水やっから」と貴重な最後の水をわけてもらうことができた。後から聞いたところ、皆家族が亡くなっていたそうだ。それでも消防団だから法被を着て皆を救助しなければいけない。逃がしたはずなのに戻ったら家族が亡くなっていたり、何日も避難所に家族が現れなかったり、当時そういう人達が消防屯所に寝泊まりをしていた。自分達がどれほど辛いと思っても、言えなかった。 消防団に、自衛隊にどうにか連絡をとってケガをしている人や赤ちゃんを救助してもらいたい、と頼み込んだことがあった。女の人達も救助させろと言うと、「女の人がいないと男だけじゃここ守れないべ」と言う。男の人達にすれば、自分の集落を捨てて行きたくない。皆で歩いて逃げようという気持ちがあったけれども、4日目の朝にはやっぱりここにいようと決心してようやく金庫をこじ開けた。それまで何もかもがどうでもよくて、目の前に打ち上げられている宝来館の金庫を開けようとも思わなかった。 集落の若い人達が残った重機で瓦礫を撤去して歩き、5日ほどで車の通る道を作った。【番頭】道が通れるようになり、釜石まで行けばなんとかなるだろうと思って行ってみた。釜石の町もとんでもないことになっていて、自分達の町を見た時以上に呆然とした。 【女将】釜石の惨状を見た時に「皆こうなのか」とショックを受けた。 |
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| ■環境を活かした復興 | |||||||||||
外から力を貸してもらうためには、自分達がまず動きださなければいけない。自分達が明るく元気でいなくてはいけない。明るく元気でいるためのきっかけといったら、お風呂だ。釜石には温泉がない。震災後、誰もがお風呂に入って笑顔になれた。みんなが元気になれるきっかけ「再興の湯」を作って、よそから来た人も笑顔になれるグリーンツーリズムに取り組みたいと思っている。三陸地域ではグリーンツーリズムで町を復活させようという動きがある。震災直後はボランティアと地元漁師をつなぐボランティアツーリズムに取り組んでいた。その延長上で、皆さんの知恵と力を借りながら一から自分達の地域を作り上げたい。自分達に残されたものは、壊れたけれども海と山と川しかない。今こそこの財産を皆さんにわかってもらいながら、「復興そのものが旅」というグリーンツーリズムをしたいと考えている。 |
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| ■未来に向けたメッセージ | |||||||||||
| メディアの方がインタビューに来た時、「世界中のアスリートの皆さん、力を貸して下さい」と訴えた。2016年に岩手国体がある。けれどもあれは、自分を奮い立たせるために言った言葉だった。私たちの地域づくりには人が来る空間を作る目標が必要だ。人の来る漁業をしながら、人の来る観光地として、再建させたい。何回津波が来ようと私たちにはここに戻ってくるDNAがある。ここで生活する道を選ぶようにできている。 これは世界一の災害だと思っている。世界中の人が見ている中で、日本人ならではの克服と新しい住み方を作るために、多くの人の知恵を貸してほしい。災害は今後も必ずある。あることを恐怖に思うのではなく、今からいっぱい準備して、日本人らしい生き方と街づくりを5年・10年かけてすべきだと思う。ただそれは理想論で、私たちができるのは一歩一歩自分達ができることをすることだけだ。 天変地異はくり返し起こることだから、ただ受け流してほしくないし、忘れてほしくない。いろいろなことを考え直すきっかけにしてほしい。 |
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| ■震災を振り返って | |||||||||||
| 【女将】私たちのこの経験は次の30年を担う子ども達の、次の日本のための経験だと思っている。今の大人たちが自分のライフスタイルを変えることは難しい。ただ、この経験をした子どもたちが新しい生き方をするための教育を実践していくことはできる。未来を担う子どもたちが、今回の経験を踏まえて新しいライフスタイルを作って行くことは可能だ。 普通の仕組みの中で生きる毎日の中で、日本中が震災を忘れてしまうだろう。今回得た多くの気づきをいつも心に思っていて、子ども達を教育して、次の未来のために生き残る日本を作っていかなければいけない。 あの時、「くるよ」と言われ続けて30年後かもしれないと思っていたことが、今日来たとのだと思った。皆さんに「今日その日が来る」ということを肝に銘じてほしい。「その時」のための準備と子ども達への教育は、今からしておける。 【番頭】これから日本を作る人達に来てみてほしい。今しかないし、これはまぎれもない事実。そこに生活があったものが津波によって崩れた事実を見て、多くの人に伝えてほしいし、いろいろな分野で活用していってほしい。もともと高齢化が進んでいた町で、さらに人が減ってしまった。だから一緒にこれからのことを考え、後押しをしてもらいたい贅沢な願いかもしれないが、長期的に後ろから支えてほしい。【女将】5歳の女の子が「津波より強い人は、津波より高いところに逃げる人。誰かを助けるために波にのまれた人も、強い人」と言っていた。5歳の子どもにそう言わせるような、悲しいことが起こらないようにしていきたい。 海は怖くないし、水も怖くない。ただ地球が動いただけの出来事。海は見えていないと異変を感じ取ることができない。津波が来るまでには短くても5分はあるのだから、5分で逃げられる場所を作り、立ち向かう勇気を持つことが必要だ。 |
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| (取材日 2011.10.20 鈴木) | |||||||||||
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