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東日本大震災後のレポート

Report9 思い描いた街の未来を、自分たちの力で

2016.03.31 17:00

【氏名】小山裕隆氏
【所属】気楽会
【属性】任意団体
【県市】宮城県(気仙沼市)
【取材日】2015/05/18
【タイトル】思い描いた街の未来を、自分たちの力で
 
【紹介文160文字】
コヤマ菓子店5代目。東日本大震災で店舗と自宅を流失した。「今ある気仙沼を積極的に楽しもう!」「気仙沼を自発的に楽しくしよう!」をコンセプトに、2006年に発足したまちづくりサークル気楽会の代表として、同じ想いを持つ地元有志と共に、気仙沼の魅力を発信し続けている。気仙沼市震災復興市民委員。気仙沼市観光戦略会議委員。
 
【本文】
■まちづくりサークル「気楽会」
 気仙沼の若者たちは気仙沼の外へ遊びに行くことに夢中で、中には「気仙沼って何もないよね」と言う人さえもいた。確かに仙台や東京に比べると娯楽施設が少なく、若者にとってエンターテイメント的な魅力の乏しい街かもしれない。気仙沼を離れて約6年半ぶりに東京から戻ってきた僕は、そうした若者たちを見て「そんなことはないよ」という思いを抱いていた。
 2006年、記者として地元の三陸新報に勤める友人を介し、3人の仲間と出会った。面白い人を集めたら何か起きるのではないかと、友人の思いつきで集められた僕らは年齢も仕事もバラバラだったが、気仙沼はもっと楽しめる街だという想いが一致した。この5人でスタートしたのが「気楽会」である。気仙沼を楽しむ会、気仙沼を楽しくする会という意味だ。会の決まりは、たったの2つ。毎日ブログを更新することと、毎週定例会を開くことだ。その他には会則も規約もなく、「メンバー」のくくりもなかった。
 ブログでは気仙沼のことや、ここで楽しむためにあれこれトライする僕たちの素の日常を発信している。発足から毎週行っている定例会は、仲間を増やして楽しい輪を拡げていくために集まる場だ。決まった話題はなく基本的に何を話しても良い。誰かの「こんなことをやりたい」提案に対し、この指とまれの合図で賛同したメンバー達が実行する。だからこそフットワーク軽く、「来週やろう」と声をかければ30名ほどのメンバーがすぐに集まる。
 これまでの取組の中で代表的な活動は「気仙沼ホルモンMAP」作りだ。地域の魅力を掘り起こして発信したら楽しそうだと話し合う中で、気仙沼のホルモンは独特だから調べてみようとスタートした。電話帳に載っていた焼肉屋や鉄板焼き屋17店舗を全て巡り、食べ、店主の話を聞き、お店の歴史をデータベース化し、「これが気仙沼ホルモンだ」と定義づけしマップを作成した。マップへの掲載許可を得るためにもう一度全ての店を回ったが、なかなか許可がもらえない店もあった。何者か怪しまれながらも何度も通ってお願いした。さらに自分たちで屋台を作り、気仙沼ホルモンをPRしながら販売し、これを資金源にマップを印刷した。今では一種のブランドとして「気仙沼ホルモン」が有名になった。こうした草の根活動を継続していく中で地域住民に認知されるようになり、今では「気楽会って何者?」とは言われなくなった。
 最近は観光案内をメインとしているが、個々で活動の幅は広がっていて、もはや気楽会という枠はない。10~15名が入れ代わり立ち代わりメンバーとして活動しながらお互いを助け合っている。これまで気楽会に携わった人は相当数にのぼるだろう。地域を楽しむ人が増えれば、その地域は必ず活性化すると思う。「やってみたい」と思う人の気持ちを大事にして、皆で楽しむ。結果的に町おこしやまちづくりにつながればいいと思っている。
 
■3月11日 14時46分
 気仙沼市魚市場前にあったコヤマ菓子店は、1階が店舗、2階が喫茶、3階が工場だった。工場にいる時に、突然工事用の大きなドリルで建物が削られているような感覚を覚えた。揺れと言うより、バイブレーションだ。どどどどどどど、と音を立てて長い地震が続き、「ただ事ではない、震源が近いな」と感じた。揺れている最中に、避難経路を確保しながら1階に降りた。
 揺れが収まったと同時に、スタッフと家族の無事を確認した。すぐに車を高台に移動し、店舗に戻った後は、屋上で地震直後からの街の様子を写真と動画で撮影した。大津波警報が発令し、けたたましいサイレンが鳴り響いていたが、僕は不思議と冷静だった。屋上から1階に戻り、メモリーカードと予備のバッテリーを準備し、パソコンを2階に避難させた。住民の半数は、すぐに津波が来ると分かっている様子だった。南気仙沼地区の皆が一斉に高台を目指して避難を始めたので、道路は渋滞していた。
 最初は6mの津波という情報だったが、その後10m以上が予想されると変更になった。もしかしたら鉄筋コンクリート3階建てでも危ないのではないかと感じ、近くの大きな建物に移動して再び撮影を始めた。津波が来ると、避難した建物はあっという間に波に包囲された。気仙沼湾は湾内に大島があり、さらに外側に唐桑半島が防波堤のように囲っている。だから直接波が押し寄せるのではなく、じわじわと水面が上がってきていた。学校で地震が来たら津波が来ると教えられたので、絶対に津波は来ると思ったが、まさかこんなにも大きな津波が来るとは考えもしなかった。古い建物が多いため、多くのビルが水圧で流されてしまった。水かさがどんどん増していき、プールのようになった。コヤマ菓子店の方を見ると、鉄筋コンクリート3階建てのビルが水圧に耐えきれなくなったようにぽっきりと折れてしまった。避難せずにそのまま屋上にいたら命が危なかっただろう。
 僕が避難した建物内には、70名ほどが避難していた。恐怖が恐怖を呼び大パニックになっていた。混乱している人々をどうにか落ち着かせないと、二次被害が起こるかもしれない。自然と、周りの人と話し合いになった。
 まずは3階の空いている3部屋に、70名が均等に分かれて待機することになった。当然停電でトイレは真っ暗だったので、灯りを照らすトイレ当番を作り、トイレ以外は立ち歩かない決まりを作った。災害対策本部を作り、皆で協力して過ごす方法を考えた。水が出るうちに確保しようと考えたが、水道はすでに止まっていた。緊張しているとのどが渇いてくる。どれだけこの状況が続くのか分からなかったし、70名分の飲み物を確保しなければならない。緊急事態だと判断し、自動販売機を壊して中から飲み物を取り出すことにした。ライトは4本しかなく、そのうち2本は途中で電池が切れてしまった。男性陣に電池を探してもらったが見つからず、細くしたティッシュを消毒用のエタノールに浸して火をつけ、空き缶にセットし、簡易ランプを作った。余震で倒れて火事になっては大変なので、空き缶をマグカップに入れて倒れないようにした。
 建物の周りの状況を確認すると、道路を一本はさんで高台になっていた。向こうへ行きたいが、石段が津波に削られてしまっていて登るのは大変そうだ。少し水が引いてきた頃に、高台から消防団の方が「そっちの建物には何人いるんだ?」と呼びかけてきた。もしかしたら多めに答えた方が早く救助に来てもらえるかもしれない。「100名避難しています!」と答えたが、返答は「自力で渡ってこい」だった。僕らは泳いで何とか渡って行けるけれど、高齢の方々も多かったので全員が自力で渡ることは難しい。それに建物内の2階まで瓦礫でいっぱいになっている。真っ暗な中を70名が1階まで降りるのは相当な危険を伴うことだ。高齢の方が多く歩けない方もいらしたので、難しいと判断し、そのまま待機することとした。
 ところが、港の方向で火の手が上がっているのが見えた。この建物は燃えないにしろ、もしかしたら煙にまかれるかもしれないと考え、男性陣で脚立を探し出して対岸へ立てかけることにした。1階へ降り、マイナス6度の凍えるような寒さの中、水に浸かりながら対岸に脚立を立てかけに行った。それもいつまた津波が来るか分からない恐怖がある。渡る際に命綱になるロープも探し出した。居合わせた者同士の協力と工夫の積み重ねにより、皆でどうにか避難した。
 
■助け合える仲間がいる
 2日目から僕は親戚の家に避難していた。すぐに全ての避難所を回って、気楽会のメンバーや顔見知りの安否を確認した。
 2006年の発足から気楽会は定例会を欠かしたことがない。避難所を回りながらメンバーに「今週も定例会やるぞ!」と呼びかけた。5日後、そうした状況でも10名近いメンバーが集まった。もちろん楽しもうなんてことはできなかった。電波は通じない、電気もないし、水も出ない。全員が着の身着のまま避難しており、服も食料もなかった。どうやって生きるか。この状況でも僕らができることが何かあるのではないか。「助け合おう」とお互いを奮い立たせた。まずは誰が生きているのか、それぞれの家族は無事なのか、お互いの状況を共有し合った。家が半分でも残っている人は荷物を取り出す作業があったので、それから約1か月は家の片づけを手伝い合った。
 発災から約1か月後にはボランティアが飽和状態となっていた。直後からたくさんのボランティアが来てくれたのだが、対応がままならず大混乱だった。受け入れ体制が整っていないためボランティア活動ができずに帰らざるを得ない方々も多かった。そこで、せっかく遠くから支援のために来てくれたボランティアの方々に何か御礼ができないかと考え、気仙沼ホルモンを振る舞うことにした。10軒以上あったお肉屋さんも被災し、3軒しかお店を開けていなかったのだが、何とかお願いをしてとっておきのお肉を譲ってもらった。焼き台は岩手の友人に買って来てもらい、ボランティアセンター前で屋台を出した。この時は15名ほどのメンバーが集まってくれた。自分の親や親戚を亡くしていても、自分にできることはないかと一生懸命になっている皆の姿を見て本当にすごいと思った。きっとそれぞれに辛い経験をし、いろいろな思いを抱えていたと思う。そういう仲間たちがいると思うと、心が震えた。「気仙沼の復興のために僕らが頑張らなきゃ」と感じた。
 
■「気仙沼はいいところでしょ!」
 気仙沼のファンを1人ひとり増やしていくというコンセプトで「勝手に観光案内課」と称した活動を行ってきた。2008年から震災前までJR南気仙沼駅構内の空きスペースを活用し、訪れた観光客に名所を案内していた。気仙沼は風光明媚なリアス式海岸や四季折々の海の幸もあるけれど、何より港町ならではの文化や、人あたりの良さと熱さが魅力だ。面白い店主がいるお店を紹介していた。
 震災が起こって景色は変わり、お店も無くなってしまった。しかし、気仙沼には復興に向けて頑張る「人」がいる。このような状況になって、これまで僕らが伝え続けてきた気仙沼の人々の魅力が、より一層伝わるのではないかと感じた。そうした中で生まれたのが「ひとめぐりツアー」だ。気仙沼の街を歩き、人を巡る。とびきりの人にゲストとなってもらい、震災の悲惨な経験だけではなく、震災前の様子やこれからどのような街にしていきたいかなどもお話してもらう。参加者はそうした想いに触れて、パワーをもらっていく。話し声が届く規模でツアーを行いたいので定員は10名だ。5~7名の気楽会のメンバーがつくので、ゲストに会いに行く途中も参加者は気仙沼に対して熱い想いを持ったメンバーたちとほぼ1対1でお話しすることができる。
 2011年9月、東京から来た方々を対象にプレツアーを実施した。建物はぐちゃぐちゃで、まだ捜索活動が行われていない地域もあり、観光ツアーは受け入れられにくい雰囲気だった。旗を持って街を歩くと、地元の人から「ここで亡くなった人もいるんだぞ」「不謹慎すぎる」と言われた。そう言われる度に、僕らはこの気仙沼の現状、これからの復興の状況を外に伝えなければならないと考えていて、外の方々に来て欲しいと思っていることを説明した。参加者からも最初は「被災地に行ってもいいんですか」「カメラ持って行っていいんですか」「被災地の人に話しかけてもいいんですか」とたくさん質問された。その度に「大丈夫ですよ」と伝えた。
 ひとめぐりツアーは、冬季は寒いのでお休みしているが、2015年6月で第24回を迎えた。参加者は仙台、東京、神戸などから女性の方が多く、リピーター率が非常に高い。ウェブサイトで広報を行っているが、ほとんどはクチコミだ。ポーランドやアメリカ、ドイツなど、海外からの参加もある。
 発災から4年以上が経過し、被災後の気仙沼しか知らない人にとっては、話を聞くだけで以前の街の様子を想像することはとても難しい。ツアーでは必ず被災前の気仙沼の様子を写真や動画を使って伝えるようにしている。ぜひ1度参加してみて欲しい。現地に来なければ分からないことは多い。最近は楽しさと未来のキーワードを意識して、ツアーを企画している。気仙沼の人々の人懐っこさと力強さ、とてもプライドが高いところ、緩やかな地域の人々のつながりなどを感じて欲しいし、「気仙沼はいいところでしょ!」と伝えたい。サブタイトルが「何度でも通いたくなる旅」なので、気仙沼のファンになって何度でも通ってもらえたら嬉しい。
 
■震災を振り返って
 震災直後、多くの人々が自分には何ができるのかと生き方を探したと思う。自分を見返し、自分の存在意義や生きる目的、挑戦したかったことは何なのか、さまざまなことに気づいた人が多かったのではないだろうか。もちろん被害は甚大だったけれど、震災をきっかけに多くの人が自分自身と向き合う機会を持つことができた。人間は日々の生活に追われてしまいがちだが、時々はそうした時間を持つことがとても大切だと思う。
 気楽会は対外的には「気仙沼を楽しもう!楽しくしよう!」というコンセプトのもとに始まったのだが、実は友人と僕の中にはもう一つ思いがあった。僕らが力をつけた40代、50代になった時、この街をひっくり返したい、自分たちの思い描いた未来にしたいという思いだった。ここは小さな地域なので、どうしても「しがらみ」がある。特に40代、50代、60代と年齢が上がれば上がるほど、しがらみはどんどん大きくなり、新たな関係を築きにくい。どれだけ若いうちに仲間と仲良くなれるか、つながっておけるかが重要だと感じていた。どこの地域でも○○青年会議所や○○会議所青年部のメンバーがまちづくりを担うのが一般的だと思うが、そうした枠組みを取っ払った関係をつくりたい。どこかの息子でなくても、普通のサラリーマンでも、この街を思う気持ちさえあればまちづくりに参加したっていいはずだ。僕が市の復興会議の委員に選ばれたのは、気仙沼に枠組みやしがらみを超えてまちづくりをしていこうという風潮が広がってきているからだと思う。さらに幸運だったのは、僕らの上の世代が、もう若い世代に任せようとしてくれたことだ。僕もだいぶ自由にチャレンジさせてもらった。気仙沼はきっと5年後、10年後、誰もがまちづくりに参加できる町として着目される地域になるだろう。震災からどう復興していくか、ここに住む人々が今ある環境の中で何をどれだけできるのか、注目して欲しい。