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東日本大震災後のレポート

Report7 いろいろな人が高田とつながる窓口として

2016.02.29 13:41

【氏名】佐藤貞夫常務理事、萩原史氏
【所属】特定非営利活動法人 パクト
【属性】NPO
【県市】岩手県陸前高田市
【取材日】2015/10/31
【タイトル】いろいろな人が高田とつながる窓口として
 
【紹介文】
東日本大震災を受け設置された「陸前高田市災害ボランティアセンター」に関わる市内外のスタッフ有志により、2011年7月に設立した地元発の団体。ボランティア活動拠点、子ども支援、簡易宿泊所運営の3つの事業を柱とし、陸前高田市内で包括的な支援活動に取り組んでいる。

【本文】
■3月11日 14時46分
(佐藤さん)経営していた店で仕事中だった。店舗は広田半島にあり、店から海は目と鼻の先だ。地震がとても大きかったため必ず津波が来ると思い、すぐさま高台にある自宅へと向かった。それはひどい揺れで、電柱がいつ倒れるだろうかと思った。自宅に帰った時、83歳の母は植木にしがみついてガタガタと震えていた。それだけ大きな地震だった。明治の津波で家が流されており、その時無事であった場所に家を建てたが、今度の津波では1階部分まで波がやってきて、1階は全壊となった。広田半島は、半島の付け根部分の平地に東西両側の海から津波が襲い、そこは完全に水没し瓦礫の山となり一週間孤立した。支援物資は発災の次の日から自衛隊やアメリカ軍のヘリコプターで空輸によって運ばれた。自宅の被災を免れた方々が炊き出しをしてくれ、田舎ならではの人々のお互い様の気持ちを感じ、ありがたかった。

(萩原さん)私は当時、社会福祉協議会の職員であった。職場は古い建物だったので余計に揺れが激しかったのだと思う。この辺りは地震による建物の被害はあまりないが、古い建物では柱が落ちたり、大きな石の塀がずれたりした。市内でも津波の来なかった山手では建物の被害はそれほどなかったようだが、一関や平泉方面の地域では瓦が落ちて、長い期間屋根がブルーシートで覆われていたことを覚えている。揺れの伝わり方は、地盤の関係で地域によって違かったのかもしれない。

(佐藤さん)この辺りの建物は気仙大工が造っているため、丈夫な作りだということもあるだろう。気仙大工の建築技法で建てられた伝承館では、「屋根が大きく揺れて、その隙間から埃がブワーッと出てきた」と聞いた。柱には「ほぞ」があり、それに桁や梁が差さっている。その「ほぞ」が長いので大きな揺れが起きても抜けない、これが気仙大工の工法だ。
 陸前高田市では三陸沖を震源とした地震が起きた場合のシュミレーションで、地震発生からの津波到達時間は7分と予想していた。ところが今回は津波が来るまで30分ほどかかった。もしかするとその30分の間に、一度は高台に逃げたものの家の様子を見に戻った人もいたのかもしれない。ましてや陸前高田市は平らな土地が多い。それが原因で岩手県内一番の人的被害となってしまった。2万ちょっとの人口の市で、1千700人余りの方が犠牲になった。高田の人は誰かしらが、家族や親戚、友人、知人を亡くしている。千年に1度と言うけれど、ここ三陸では百年に1度の出来事だ。大震災の前にはチリ地震による津波もあった。広田半島には明治の津波がここまで上がってきたと印す碑が8か所にあるが、今回の震災ではほとんどの場所で碑がある所まで波が上がってきた。
 
■陸前高田を想う人をつなぐ窓口
(萩原さん)2011年7月に任意団体としてパクトを設立した。社会福祉協議会が運営する災害ボランティアセンターに関わっていたスタッフの有志が立ち上げた団体だ。災害ボランティアセンターのスタッフはニーズ調査のため各現場へ行き、地元の方からお話を伺っていた。その中で特に小学生の保護者の皆さんから「子ども達が安全に遊べる場所がない」という声が非常に多く聞こえてきた。それではと、当時災害ボランティアセンターに来ていた学生さんにもご協力をいただいて、寺子屋のような形で子ども達が安心安全に遊べる居場所づくりを始めたのが任意団体立ち上げのきっかけだった。この活動は「みちくさルーム」という子ども支援の活動へと発展していく。
 その後、2012年10月に法人格を取得しNPO法人となった。同年12月23日に災害ボランティアセンターが閉所となるまで、センターを介してボランティア活動に参加して下さった方ののべ人数は約13万人に上る。各地から来てくれた多くの方々と地域の方々のつながりは、陸前高田市にとって大きな財産の1つだ。このつながりを途切れさせないために、災害ボランティアセンターの想いを引き継いで、2013年1月からボランティアの受け入れ窓口として「復興サポートステーション」をスタートさせた。 
 陸前高田市では多くの宿泊所も流失していたため、市が廃校になった小学校をリフォームし、簡易宿泊所「二又復興交流センター」を造った。パクトではこの指定管理を受け、2013年7月から運営を担っている。もともと統廃合によって、2011年4月から3つの小学校が1つになる予定だった。大震災後はそのうちの1つの小学校が、リフォームもされずそのまま無料宿泊所として提供されていた。宿泊所が慢性的に少ない状況の中、たくさんの方々が陸前高田市に来てくれているので、市がその小学校の改修を行った経緯がある。宿泊所にはユニットバスと男性用の大浴場がある。海外から来るお客様は大浴場に馴染みがないため、ユニットバスの方が良いようだ。高田には大勢で宿泊できる場所がまだないので、最近では社員研修や企業研修、遠征でいらっしゃる学生さんなどいろいろな方にご利用いただいている。
 団体としては以上の大きく3つの事業を運営している。

(佐藤さん)私は今回の津波で店一軒が流されてしまった。ボランティアの力を借りて、最初は畑に花壇作りを始めた。するとそれを見ていた近くのご年配の方から、ゲートボール場も作ってくれないかと相談されて、ゲートボール場とパークゴルフ場も作った。まだ震災後で何もない最初の頃だったので、作ってみると高田中から人が集まってくれた。皆が集まってくれるのは嬉しいけれども、当時は大型のダンプが行き交っており、転んで事故でも起きたら大変だと心配していた。花壇を作ってくれたボランティア団体が他の場所にも同じようなグラウンドを作ってくれたので、それぞれの地域で気軽に体を動かすことができるようになった。

(萩原さん)佐藤の家ではボランティアセンターのボランティアに瓦礫撤去などのお手伝いをしてもらっていたので、それがご縁で佐藤をパクトのスタッフとして迎えることとなった。復興サポートステーションを立ち上げるにあたりスタッフが足りないという理由もあったが、佐藤は震災後にボランティアの方々と個人的なつながりを持っていたので、お願いしてスタッフとしてパクトに来てもらった。

(佐藤さん)例えば、高田にたくさん送られてきた球根のうち、広場の花壇に愛知県の学校から送られた球根をいただいた。植えましたよ、咲きましたよ、と手紙と写真で報告をしていたら、その後も学校とのやり取りが続くようになった。そんな風にお世話になった後もいろいろな人との交流が続いて、つながりがどんどん増えていった。自分がこうしてボランティアの方々のお世話になったので、今度は自分が返していかなければと思っている。
 
■支援活動の大原則
(萩原さん)復興サポートステーションは、災害ボランティアセンターの想いを引き継いでいる。災害ボランティアセンターというのは、「ボランティアがやりたい」ボランティアのためのセンターではなく、地域の方々のためのセンターだ。地域住民の気持ちに寄り添った活動をし、ボランティアはお客様ではなく仲間であると考えて活動していた。ニーズありきの活動であり、地域住民のために行う活動が地域の方々の負担になってはいけない。これはとても大事なことだと考えている。発災直後、辺りは本当に瓦礫だらけで一歩歩けば釘を踏み抜く状態だった。どんなに人数が多くても、朝のオリエンテーションは手抜きをせずに時間をかけて最大限の注意を払ったが、それでもどうしてもケガは防げない。活動する1人ひとりがどんなに注意しても防げないのだ。なぜケガをしてはいけないかというと、本人に痛い思いをさせたくないという理由だけではない。ボランティアがケガをしたり体調を崩したりして、心を痛めるのは陸前高田市の市民だからだ。これだけ被害のあった場所に全国から、そして海外からも多くの方が来てくださって自分たちのために活動してくれているのに、そのせいでケガをさせてしまったと悲しい思いをしてしまう。市民の方々をこれ以上悲しませないためにもと、災害ボランティアセンターでは口うるさいくらいに装備にもオリエンテーションにも気を配っていた。
 復興サポートステーションはこの考えを引き継いでいる。ボランティア活動において「自己責任、自己完結、自己管理」はよく言われる3原則である。けれども、それはボランティアのためではなく、本当に助けを求めている人たちのためのボランティア活動であるからこその原則だ、ということを理解してもらいたい。初めてボランティアに来る方もいらっしゃるので、参加のあり方を考える目安の1つとして見ていただきたいと思い「ボランティアの心得」をウェブサイトに掲載している。

(佐藤さん)今はボランティア活動をするにあたって当時ほどの危険はなくなってきた。「4年が過ぎてやっと踏ん切りがついた、花壇が造りたい」と仰る方もやっと出てきた。これからは仮説住宅を出て復興住宅へ移り、あるいは家を建てる人も出てくる。引っ越しの手伝い、それから農業・漁業の支援はまだまだ必要だ。高田は大震災によってますます少子高齢化が進んでしまい、とにかく今は一番人手が足りない。だからこれからもボランティアに応援してもらいたいと思っている。
 
■陸前高田で行う復興教育
(萩原さん)ボランティアの人数は減少傾向にあり、2014年度は7千人、2015年度は6千人ほどになった。

(佐藤さん)今は復興教育の一環で、中高生が団体でやって来てくれる。スタッフが震災発生当時の様子を伝えるオリエンテーションを行い、それぞれの都合に合わせた時間でボランティア活動をしてもらう。

(萩原さん)被災地でのボランティア活動を通じた復興教育を教育委員会や学校が推進していることから、2014年度頃から受け入れが増えた。学びの一環として現場でボランティア活動を体験する内容だ。

(佐藤さん)かわりに企業等によるボランティアツアーなど一般の参加は減ってきている。いつも来てくれている人は、周囲の人から「まだ行っているの?」と言われるらしい。ボランティア全体の数は減っているが、個人のリピーターは増えている。学生の時にボランティアに参加していて、卒業してからも来てくれる人もいる。

(萩原さん)災害ボランティアセンターが開設していた当時からずっと通ってくれている方もおり、その方がお仲間を連れて来てくれることもある。中高生は県内の学校からの受け入れが中心だが、パクトとつながりのある各地のボランティアの方々がコーディネートして下さって、県外の中高生が来ることもある。

(佐藤さん)仲介役に任せきりの学校もあれば、事前に勉強をしてから来る学校もあり、受け入れをする中でその違いは少し感じている。

(萩原さん)報道が減り、目から入る情報が少なくなった影響はあるだろう。当時小学生であった彼らが、震災を現実、あるいは自分の事として捉えるのは難しいと考える。

(佐藤さん)ましてや瓦礫があるわけではなく、今は何もない土地が広がっているだけだ。

(萩原さん)パクトの事務所がある場所も当時は浸水して瓦礫だらけの場所だった。けれども今訪れると、かつてそんな状況であったことは見ただけでは分からないため、やはり彼らはリアリティを持てない。かさ上げ工事が進んでいるあの場所が、実は高田の市街地だったことは言われないと分からないし、言われたからといってイメージはできないと思う。これは当たり前の話であると思うし、しょうがないことだとも思う。それでも、かつてはいろいろな人が生活していた場所であり、津波によってすべて流されて、そこにあった生活そのものが無くなり、多くの方が亡くなったことは事実だ。最低限、それを踏まえた上での言動を考えなければいけないと思うし、それを教えずして何が復興教育だと言うのだろうか。この重みを知っているのと知らないのとでは全く違う。このことを事前にある程度考えて来たかどうかは、ここに到着した時点で分かってしまう。受け入れの際には、自分たちが行く場所はどういう場所なのか、現地で取り組む活動は誰のために行うものなのかを、一度皆さんで考えてから来てくださいとお願いするようにしている。
 せっかく来てくれるのだから、陸前高田市のことを知ってほしいし、また来るきっかけになれば嬉しい。あるいは次の災害に備えて考えるなど、何かしらを感じて持ち帰ってもらいたいと思っている。

(佐藤さん)災害が起きた時、一番力を発揮するのは中高生だ。彼らは集団としてまとまりやすい。逆に大人はバラバラだ。そして彼らは大人が見えない所に気がつき、とにかく頑張る。

(萩原さん)中高生は避難所の環境整備も率先してやってくれた。彼らの力はとても大きい。
 大きな揺れは皆の共通する体験だろうけれども、被災した県内でも内陸部と沿岸部では温度差があるように感じている。停電になっていた時間、断水していた期間も違い、あの震災の経験の有無は大きな差となって現れている。陸前高田市では未だに地震の揺れやサイレンの音に敏感になっている子どももいる。経験したからこその反応だ。経験していないから実感がわかないということもあるのだろう。災害は毎年どこかで起きていて、次は自分が住む地域に起きるかもしれないという意識を持つことが重要だ。だからこそ教育委員会や学校は復興教育・防災教育を推進しているのだろう。復興サポートステーションでの受け入れが、子どもたちにとって防災を考えるきっかけになればいいと思っている。
 
■高田っこがのびのび遊ぶ場を
(萩原さん)子どもが子どもらしくのびのびと過ごせる時間や空間を作ろうと、学生ボランティアの協力を得て「みちくさルーム」を運営している。震災後、校庭に仮設住宅が建ち、4年半過ぎても子ども達を取り巻く環境は「当たり前ではない状況」が当たり前になってしまっている。運動会を開催するにもバスでどこかの運動場に移動しなければいけないし、陸上競技会の練習をするにも、校庭には100m走の場所が確保できないのでわざわざ隣接市へバスで移動して練習する学校もある。現状は思い切り走る場所もなく、走ること1つとってもまだ通常ではない状況が続いている。仮設住宅から再建して復興住宅へ移り、市内とはいえ住む場所が変わり、学校の統廃合もあり、スクールバスを使って学校へ通う子どもはとても多い。いろいろな生活環境の中で子どもは子どもなりに親に気を遣って胸の内に溜めてしまうものがある。子ども達がのびのびと過ごすには、まだまだ多くの制約がある。安全に見守りを受けながら、ほんの2時間でものびのびと自分らしく過ごせるようにと提供してきたのが「みちくさルーム」だ。基本的には小学生を対象としている。最初は2地区で実施していたが、いろいろな地区から要望があり、今では4つの地区で実施している。
 学生が中心になって、工作や体を動かす遊びなどのアクティビティを考えてくれている。学生ボランティアのリピーターも多い。2日間のプログラムでは1日目は大学生が考えたプログラムを、2日目は子どもたちがやりたい遊びをと、遊びのプログラムは本当によく考えてくれている。夏休みなどの長期休暇には定期的に来てくれる学校もあり、特別プログラムとして実施している地区もある。当時はいろいろな方が陸前高田に来ていたので、誰がどこの団体の人なのかも分からず、大人も子どもも不安になる方が多かった。初めて来た大学生に「でももう来ないんでしょ」と言ってしまう子どももいた。見たことがある人、同じ大学の同じユニフォームを着たお兄さん・お姉さんがいると安心感が生まれる。もう会えないんだと寂しい思いをさせることがとても辛かったので、基本的に同じ大学から同じ地域に行ってもらうスタイルをとっている。

■これからの活動
(佐藤さん)復旧工事が終わって復興のフェーズに入り、ニーズはさまざまな内容に変容した。「ここは沿岸で被災したから」「ここは山の手で被災していないから」と分けるのではなく、陸前高田市の全容を見て市の全域で活動をしていきたい。どんな些細なニーズでも真摯に受け止めて取り組みたい。高齢化率35.7%の高田には、1人暮らしの高齢者も多い。

(萩原さん)行政サービスの枠に入らないけれども、だんだんと体が衰えて思うように体を動かせなくなっている高齢者も増えるだろう。さらに震災の影響でいろいろなコミュニティが崩れ、新しいコミュニティを作らなければならない精神的な負担など、市民にとっては被災状況に関わらず震災の影響があると思っている。地域の皆さんに、まずはパクトに相談してみようと思ってもらえるように認知してもらい、パクトがあるから安心だと思ってもらえる団体へと成長していきたい。「被災した・していない」で計るのではなく、視野を広く持ち、皆で当たり前の生活に戻っていけるように、団体として取り組みたい。パクトの由来は「PASSION」「ACTION」「CONECTION」からきている。『情熱を持って行動し、高田とつながる』の意味だ。困っている人や助けが必要な人が零れ落ちていかないように、今まで以上に人と人をつなぐことで、地域全体で皆が協力し合っていけるようお手伝いできる存在になることが目標だ。