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東日本大震災後のレポート

Report1 自立したコミュニティの強さを実感

2015.08.19 15:00

【氏名】竹内範子氏
【所属】個人(山田町)
【属性】個人
【県市】岩手県山田町
【取材日】2015/04/07
【タイトル】自立したコミュニティの強さを実感
 
【紹介文160文字】
岩手県山田町。ペレット・薪兼用ストーブのあった竹内氏の自宅が、東日本大震災で地域の避難所のような役割を果たした。過去の津波でも同じ役割を担ってきたと言う。その経験から水や食料の備蓄だけでなく、寒い時期に被災した際に暖を取るための備えの必要性、そして地域住民同士がいざという時に助け合えるコミュニティ力の重要性を訴える。
 
【本文】
■薪ストーブのある暮らし
 昔から薪ストーブは、わが家の暮らしにはとても身近な存在だった。2004年、釜石市にある石村工業株式会社からペレット・薪兼用ストーブ「クラフトマン」が売り出された。このニュースを目にした父は「これからは木質バイオマスの時代だ」と言って、すぐにストーブを見に出かけた。当時、薪ストーブといえば、下から燃料の薪を入れるのが一般的であり、常に人がそばについて薪を補給しなければならなかった。けれどもペレットを燃料にできる石村工業の「クラフトマン」は、電気を使わずに燃えた分だけ自動的にペレットが落ちていく。だから常に人がついて、燃え具合などを見ている必要がない、画期的なモデルだった。ペレットと薪を兼用できる点でもこれまでにないストーブだった。正面にガラス窓はついていたが、父は扉を開けずに薪を入れられるように小さなスライド式扉を頼んで取りつけてもらった。古くから製鉄が盛んな街・釜石の石村工業さんだからこそ、こうした注文にも快く答えてくれたのだろう。
 例年、11月から4月までストーブを利用し、大体300袋のペレットを使う。寒くなる前の使い始めの時期は朝晩で約1袋、12月末頃からだんだんと寒さが厳しくなると、1日で2袋から3袋のペレットを使う。東日本大震災以前は、住田町のペレットを仕入れてくれる近くの業者から購入していたが、震災後は入手が困難になった。送ってもらうにも送料がかかってしまうので、最近葛巻町のペレットを扱うようになった石村工業から購入している。
 
■3月11日 14時46分
 突然ものすごい揺れに襲われた。立ったままではいられないほどの激しい揺れだった。しばらくして地震は収まったが、揺れが尋常ではなかったので、10分もすれば大きな津波が来ると直感した。高台へ避難しなければ危ないと思い、近所で一人暮らしをしている94歳のおばあちゃんや近所の方々と、海抜約10mの高さの自宅の庭に避難した。2日前にも津波警報が出て避難する事態があったので、当初はあまり緊張感もなく皆で海を見ていた。
 15時18分、海全体が盛り上がってきているような感覚を覚えた。「これはただ事ではない」そう感じた次の瞬間には、波が堤防を越え、そばに停まっていた車が巻き込まれながらぐるぐる回り、海の中へと落ちていった。係留されていた大きな船は、船艇を見せるようにしてひっくり返ってしまった。ここでも危ないと思い、一緒に海を見ていたおばあちゃんの手を取りながら、「もっと上へ!」と裏山の険しい獣道を必死に登った。
 裏山から、織笠川を流されていく多くの家々を、これは現実の光景だろうかと思いながら見ていた。
 
■温まると生きる希望が湧いた
 夕方、だんだんと辺りが暗くなるにつれて、寒さが増してきた。これ以上大きな津波は来ないだろうと判断し、一緒に裏山へ避難していた近所の方々と家へ戻った。自宅は床下浸水だったが無事だった。プロパンガスなのでガスが使えたし、それなりに食糧は備蓄してあった。そして何より、ペレット・薪兼用ストーブがあるので暖を取ることができた。ストーブは単純な作りと設置のためか、煙突や設備の破損はなかった。津波で足元が濡れた方もいたので、ストーブで火を焚いて皆で一緒に温まった。火の持つ力は、煮炊きができて暖が取れる物理的な効果だけではなく、精神的な効果も大きい。温まると生きる希望が湧いてくると思った。
 11日の晩から近所の方々が家に泊まった。12名ほどが集まったので、人数分の布団がなく申し訳ない気持ちだったが、「ここが一番あたたかいから」と言い、皆さんはストーブのある台所に集まった。地震の翌々日は雪が降ったので、もしストーブがなかったら寒さに震えていただろう。灯油の備蓄はあったけれど、おそらく2~3日しかもたなかったと思う。ちょうど震災発生の1週間ほど前にペレットを60袋補充しており、さらには薪の積み置きもあったので、薪とペレットを併用すれば燃料は十分だった。
 地震の翌々日、織笠小学校や山田高等学校の避難所に行くと、津波に巻き込まれて身体が濡れてしまった人々が、生徒のジャージを借りたりしながらも、寒さに震えている状況だった。広い避難所の真ん中に小さな石油ストーブが置いてあるだけで、全員が暖を取るには十分とは言えない。中に、「大丈夫です」と言いながらガタガタ震えている80歳前後のご夫婦がいた。このままにしていては危険だと感じ、「あたたかいですから、家に来てください」と声をかけて、家に来てもらった。すぐにお湯をたくさん沸かして湯たんぽを準備し、身体が温まる食事を作って、一生懸命に介抱したところ、4日後には回復し元気を取り戻された。
 その頃は全く知らなかったのだが、後になって低体温症についてのニュースがラジオなどで頻繁に聞かれるようになり、彼らは避難所で低体温症になってしまっていたのだと気づいた。改めて火の持つ力のすごさを痛感した。
 
■身近なライフラインの重要性
 電気が復旧するまで約1か月、水道は約3ヶ月かかった。給水車が来る時間に合わせて待機し、ポリタンクなどの容器で運んだのだが、水は重いので本当に大変だった。家の裏に60年以上使っていた井戸があったが、地震の後はパタリと出なくなってしまった。しかも、数年前に水を汲む手動ポンプを電動ポンプにしたので、停電したらポンプも使えなくなった。地震から1週間ほどたってから水道工事屋さんがやって来て、臨時の発電機を使ってポンプを動かし、何とか水が出るようにしてくれた。水源がずれてしまったためか、ちょろちょろとしか水は出てこなかったが、片づけ作業で泥だらけになった時、供給されたきれいな水を使うことはできなかったので、その少しの水でもとても助かった。
 着の身着のままで避難する人がほとんどなので、寒い時期に災害が起こると、いかにあたたかく過ごせるかがポイントとなる。震災後、食料の備蓄は浸透したと思うが、暖を取る方法も考えておかなければならない。仮設住宅への入居が始まる6月上旬までに入れかわり立ちかわり35人の方が泊まられたのだが、わが家も寝具類などが十分にあるわけではなかったので、ペレットストーブがなければ地域の方々を受け入れられなかったと思う。それから、ストーブが薪とペレット兼用であることに非常に助けられた。燃料のストックが十分にあったものの、もし足りなくなれば倒れた家の柱や津波で流れてきた倒木などを燃やせたはずだ。石油ストーブは灯油がなくなる不安が大きいし、発電機などはガソリンを備蓄しておかなければ使えない。遠くから供給されるエネルギーと、裏山に行けば得られるようなエネルギーの違いは大きい。地域で確保できるエネルギーが一番だと思った。
 ただ、倒木などを燃やせたはずだと言っても、実際には津波の破壊力は本当にものすごいもので、あらゆるものが絡み合い簡単には動かせなかった。家の前の坂も瓦礫で埋まってしまい、下に降りられなかった。チェーンソーやナタなどの道具があれば、瓦礫を切って道を作れたのにと苦い思いをしたので、震災後はチェーンソーや混合油を備蓄している。
 
■父の教え 自然と生業を共有する
 漁業に携わっていた父は、昭和8(1933)年の三陸沖地震津波、昭和35(1960)年のチリ地震津波、平成23(2011)年の東日本大震災と3回の津波を経験している。津波は何年かに一度は必ず来るので、人が何を作ってもかなわない。また、津波は災害ももたらすが恵みももたらし、潮が変わると養殖や魚などの生育が良くなると言っていた。
 河口堰がなければ川に津波のエネルギーが逃げるのだが、河口堰を作ってしまうと波がぶつかった時にエネルギーが横に逃げて、これまで被害がなかった場所に被害が出てしまう。自然に力で対抗するのは無理なので、自然のエネルギーをうまく逃がすことが大事であると思う。この地域では9.7mの防潮堤を作るらしい。いくら堤防を高くしても、海が見えない方が危険だと思う。4mの防潮堤ですら、そばにいた人は海が見えず津波に気がつかなかった。高い防潮堤がマイナスに働いてしまうのではないかと危惧している。
 防潮堤に関しては、賛否両論でいろいろと意見が分かれているけれど、津波を経験して最も重要だと分かったのは「とにかく逃げる」ということだ。私たち人間も自然のサイクルの中に組み込まれた存在であると気づき、自然のエネルギーをうまく利用して付き合うこと、生業を共有することが大事なのだと思う。
 
■大震災を振り返って
 震災を通して、日頃のコミュニティの大切さを認識した。震災前から、注意報や警報が出ると、皆で集まり解除になるまで一緒に過ごしていた。また、普段から「見守り隊」という役割分担があり、電気がついているか、洗濯物が干してあるかなど、特に一人暮らしの高齢者のお宅を中心に隣近所の様子をお互いに見守り合う関係性があった。地震の時も一人暮らしをしている94歳のおばあちゃんのお宅に様子を見に行き、避難してもらった。もちろん個人情報やプライバシーの保護などに厳しい昨今なので、難しい部分はあるだろう。しかし、隣近所に誰が住んで、どうしているのか、地域で共有し、いざという時に助け合える体制を取っていなければならないと思う。薪ストーブを活かすにもコミュニティが必要なのである。
 さらに、そうしたコミュニティの力は、人々の精神的な支えとなるのではないかと感じている。最近、震災の過酷な状況下で我慢し続け、体調を崩している人が多い。周りに支えようとする人がいれば、ひどくなる前に気がついてあげられるのではないだろうか。立ち上がるためには、皆がお互いにお節介をやいていかなければならないのだと思う。何か行動を起こす前に「こんなことをしたらお節介なのではないか」と考えないこと。もしかしたら他の人とは別な角度で手助けすることができるかもしれないのだから、やってみなければ分からない。地震後、たまたまコーヒー豆がたくさんあったので、避難所から家を片づけに来た近所の方に「コーヒー飲んでいってください」と声をかけた。特別なコーヒーではないのに「すごく美味しい」と言われ、喫茶店のように毎日たくさんの人が集まった。お話したり、一緒に泣いたり、笑ったり、ちょっと声をかけるだけでも、それが立ち直りの手助けになるような気がする。
 そして、ボランティアやNPOの支援など他地域の応援から本当にパワーを頂いた。最初は遠慮がちだったNPOの方々とだんだん親密になり、お互いにコミュニケーションを取れるようになった。そうした方々の支援・気遣いにいかに励まされたか計り知れない。普段から行政に頼りきり、任せきりにせず、地域が自立する部分も必要であろうと考える。大きな災害が起きた時のための備え、生き残るためには日頃から何をしておくべきなのかを考えなければならない。自分たちでできることは、自分たちでやっていくのだという自覚が必要なのだと思う。