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東日本大震災後のレポート

Report2 震災で知った、その土地に暮らす意味

2015.09.08 14:30

【氏名】内記和彦氏
【所属】西和賀町林業振興課
【属性】行政
【県市】岩手県西和賀町
【取材日】2015/06/23
【タイトル】震災で知った、その土地に暮らす意味
 
【紹介文160文字】
西和賀町林業振興課課長。「薪ストーブ利用世界一」を目標に掲げる西和賀町の担当職員として、町民が薪ストーブを利用しやすい環境の整備や病院へのチップボイラー導入など森林エネルギーの活用に取り組む。東日本大震災では町の職員としてだけでなく個人的にも被災地へ支援物資を届けた。
 
【本文】
■目指せ薪ストーブ利用世界一
 2005年に旧湯田村と旧沢内村が合併し誕生した西和賀町は、町域の9割を森林が占める自然豊かな地域である。燃料革命によって主要なエネルギーが石油へ変わる前は薪炭の需要が多かったため、この地域では基幹産業として農林業の他に、薪炭を出荷することで生活の糧を得た時代があった。また、暮らしの中でも昔から囲炉裏や薪ストーブが利用されていた。2009年に実施した薪ストーブに関する町民アンケートによれば、町民の5割が薪ストーブの利用経験があり、3割が現在も利用している。アンケートでは薪が手に入るならば薪ストーブを利用したいとのニーズの高さも判明したので、森林組合と共に薪の供給体制を整えた。以前に比べて薪が手に入りやすい仕組みができてから、薪ストーブの利用を再開した家は多い。我が家でも再び薪を使い始めた。
 持続可能な地域社会をつくる上で、可能な限り地域内でエネルギーを調達する仕組みがあることが理想だ。町では「薪ストーブ利用世界一」を掲げ、導入に向けての働きかけを積極的に行っている。西和賀はかつてとても貧しい地帯で、半年に及ぶ長い冬は2m以上の豪雪でなかなか病院に行けず、新生児や乳幼児の死亡率が高く、高齢者の病気も多かった。生命を尊重し、この状況を改善しなければならないと、病院を中心に住民と行政が一体となって、乳児・老人医療費無料化や健康づくりの基盤となる住宅改善などの保険医療の充実を図り、誰もが健康的に暮らせる村を築いてきた。このように自立的に取り組む中で、町ではエネルギーも自前で調達していくべきであるという考えが芽生えたのだと思う。
 町で森林資源活用促進の理念を掲げているが、町民の実情は経済性が良い、暖かい、身近にあり昔から使っていたなどを理由に、石油ファンヒーターは便利だけれども薪ストーブを使用するのが良いと判断する方々が多いようだ。行政が理念を掲げつつ、町民の皆さんにとってより良い町や暮らしにつながる実感があれば自然とそちらの方向を向くものなのだろう。いくら行政が推進しても町民が自ら動くムーブメントがないのであれば、それは需要がないということだ。
 
■3月11日(金)14時46分
 事務室で仕事をしていると、それほど大きくはないが揺れを感じた。震度4程度の地震で屋外へ避難することはあまりないのだが、経験がないほどの時間の長い揺れに異常を感じた。ほとんどの職員が外に出た。議会も中断し議員も外へ避難した。このような事態は役場職員になって初めての経験だった。
 地震発生直後に停電し、そのまま3日ほど停電が続く地域もあった。役場には発電機があるのでテレビを見ることができた。スマトラ島沖地震の津波はゆっくりと迫ってくる印象だったが、三陸の津波はケタ違いのスピードで押し寄せておりとても驚いた。あまりにも衝撃的な映像であり、テレビ見ていても災害の大きさはまったく想像がつかなかった。
 その日のうちに地震災害警戒本部を設置し、ちょうど各行政区で防災組織を整備していたので、それらが機能するかを職員が確認に回るところから町としての対応が始まった。西和賀町は冬場の降雪状況確認などのために、各地区の担当職員が決められている。職員がそれぞれ区長さんから状況を聞き、さらに1人暮らし・2人暮らしの高齢者世帯を訪問し、暖がとれているか、不安を感じていないか確認した。
 幸いこの地域はプロパンガスであったのでガスは点いた。農業に携わる町民が多いので、各家庭に食糧の蓄えもある。停電によって一部で供給が止まってしまった地域もあったが、水道もほとんど問題なく使えた。最も苦労したのは、発災から数日後にやってきた深刻なガソリン不足だ。生活はもちろん、通勤に車を使う町民は多い。ガソリンスタンドには行列ができ、とうとう給油ができなくなり、確保に苦労する日々が約1カ月続いた。情報も交錯し、町全体が混乱していた。
 
■薪ストーブの活躍
 震災時に「薪ストーブがあって助かった」という声はとても多かった。町の6割ほどは薪を使っている、もしくは薪を使ってみたいと関心がある家庭だ。薪にあまり関心がない家庭ではオール電化に移行した家も多かった。震災時にライフラインが止まった日々を経験したことで、以前は興味を持っていなかった方々からも、暖かく、煮炊きができ、ある程度の灯りになる薪ストーブは「いいもんだな」という声が聞こえてきた。
 西和賀町では薪ストーブが地域に根差し、町民の皆さんの生活の支えとなることを目指して事業を進めてきた。普段は目立たなくとも、災害時に「あってよかった」と感じた方が多かったのなら、それは地道に進めてきた事業の成果だろう。地域の森林資源を活用することが、石油の購入などで地域外に出て行ってしまうお金を少しでも地域内へ取り込み、1人でも2人でも雇用を生むことにつながるのではないかと考えている。
 
■避難者の受け入れと支援
 地元のボランティアグループが支援のためすぐに被災地へ向かった。また震災の翌日には、地元の高校生たちが町民に食糧や衣類の提供を呼びかけ、部活動でつながりのあった陸前高田へ支援物資として届けた。どこへ何をしに行ったらよいのか分からないような混乱の中で、震災前に築いたつながりをたどり、支援活動を行ったケースが多かったと思う。町の誰もが被災地の方々を応援したい気持ちを持っていた。震災直後の個別的な支援の動きが、だんだんと組織化されていった。町では岩手県と連携しながら西和賀の温泉宿での避難者受入支援に取り組んだ。陸前高田からの避難者が多かったようだ。避難されてきた方々から必要な物を聞き取り、各地から届く支援物資を配布した。また、避難所には風呂がないところが多いので、バスを出し、大槌などから日帰りで温泉に入りに来てもらった。釜石市に対して職員派遣などもしており、支援の取組は現在も続いている。
 西和賀は雪が原因で亡くなる方がいるほどの豪雪地帯であり、自然の脅威と間近に暮らしている地域だ。自衛隊に来てもらい除雪してもらったり、その昔は雪解けが遅くて田植え用の苗が作れなかったため陸前高田で苗を育て供給してもらったりと、周りの地域の方々に助けてもらってきた。だからこそ町の誰もが今度は自分たちが他地域の助けとなりたい、大変な思いをした方々に少しでも安らいでもらいたいと考えていたと思う。
 2011年3月末、私も個人的に所属しているNPOの支援活動で、大船渡と陸前高田に救援物資を届けた。震災以前に何度か訪れたことがあったが、まったく様子が違っていて唖然とするばかりだった。陸前高田へ行った時に、被災した方々の大変な状況をたくさん聞いた。家族が犠牲となってしまい火葬する必要があるが、地元の自治体では対応が追いついていなかった。秋田県で火葬できることになったけれども自分の車で行かなければならず、ガソリンを確保できないので行くのは難しいと言う。普段では想像もできないような困難に直面していた。家内の同級生は津波の犠牲となってしまい、ご家族からはちょっとしたタイミングが明暗を分けたと聞いた。「あの時こっちに逃げていれば助かったのではないか」と、悔やんでも悔やみきれない、気持ちのやり場がない様子に胸が詰まった。
 
■大震災を振り返って
 今回のような大津波の来る海の近くではもう生活できないと言う方がいる。一方で、ずっと海の傍で暮らしてきたので、それは心得て生活していくのだと言う方もいる。山で暮している私は海辺で暮らすことに津波の危険が伴うのなら、その地域を離れて暮らした方が良いのではないかと思ったりしてしまう。
 しかし見方を変えると、他地域の方々からすれば、1年のうち半年も雪があり、その間は何の農産物も作れず、暮らすには非常にハンデがある西和賀に対して、なぜそんなにたくさんの雪が降る地域で暮らすのだろうか、別の地域で暮らした方が良いと感じるのではないだろうか。
 震災を経て、その土地で暮らすとはどういうことなのだろうかと考えさせられた。人々がその土地で暮らすに至ったのには、いろいろな背景や理由があったはずで、自然災害の危険から「逃げれば良い」「離れれば良い」と簡単に判断できるものではない。西和賀で暮らす私たちはこの地域の良さを感じながら生活している。西和賀の良さは稼ぎや生活様式などいろいろな面で、良い意味でフラットなところだ。誰かと比べて周りを気にする必要はない。また習慣や決りごとにとらわれすぎることがなく、世代を超えてざっくばらんに話せる雰囲気や、外からの人やものなども気軽に受け入れる部分があり、暮らしやすい。震災を通して、西和賀で暮らしてきた意味を見つめ直し、生まれたところで生きていけることのありがたさを改めて感じた。