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東日本大震災後のレポート

Report3 信頼関係でつなぐ復興から地方創生へのパイプ役

2015.09.09 17:55

【氏名】中村博充氏、佐野利恵氏
【所属】釜援隊
【属性】任意団体
【県市】岩手県(釜石市)
【取材日】2015/7/10
【タイトル】信頼関係でつなぐ復興から地方創生へのパイプ役
【紹介文】
2013年4月に釜石リージョナルコーディネーター(通称:釜援隊)第1期生が活動をスタート。釜石市が総務省の復興支援員制度を活用して募集し、釜石の復興まちづくりのためにさまざまな経歴を持つ隊員が全国各地から集まった。市内NPOやまちづくりの議論を行う団体・市関係機関と協働し、支援を行うとともに連携を促す役目を担う。
 
【本文】
■3月11日 14時46分
(中村さん)震災当時は東京の商社で働いており、営業で神奈川県にいた。訪問先の最寄り駅に着いた瞬間に地震が起きた。最初は何が起きたか分からなかった。電車を降りて改札に向かうと電気は消え、看板が通路に落下していた。外に出ると街中がざわざわしている。営業先へ向かうためにタクシー乗り場やバス乗り場に行ったが、すでに長蛇の列ができており混雑していた。停電で信号が機能していないのでタクシーもバスも運転を見合わせていて、身動きがとれなかった。お客様に伺えない旨を伝えるため電話をしたが、つながらない。ひとまず状況を知るため、持っていたパソコンで情報を収集してみると、東北で大きな地震が起きたことが分かった。ツイッターにも地震に関する多数の書き込みがあり、よく分からないがとんでもないことが起きていると感じた。結局その日は電車が動かず東京には戻れなかった。緊急避難所となった近くの高校で1晩を過ごした。
 
(佐野さん)当時私は大学3年生で、春休みを利用して故郷の岩手県盛岡市に帰っていた。友人や母と一緒に車で移動していた時、地震が起きた。まるで誰かが車の上に乗り、激しく揺らしているようだと感じた。停電したのですぐには事態を確認できず、何が起きているか分からないまま2、3日を過ごした。沿岸部は大津波による甚大な被害があり、町は壊滅状態だと噂を聞いた。果たしてどんな状況なのかいても立ってもいられず、震災から約1週間後、ボランティアとして支援活動に参加するために車で沿岸部に向かった。道中は瓦礫と埃にまみれて悪路だったが、なんとかたどり着くことができた。沿岸部は話に聞いていた通りの被害で、とても混乱していた。震災直後の沿岸部の状況を見ているため、盛岡で大した被害もなかった自分が「被災した」という感覚はあまりない。
 
■釜援隊の設立
(中村さん)震災直後、政府は必要な予算を確保して被災地の応急対応を行っていたが、現場からはモノが足りない、対応が遅いとの声が減らなかった。震災直後から応急・復旧の予算関連を担当していた財務省の嶋田賢和さんは、国の動きと現場のニーズのギャップに疑問を持ったそうだ。そして被災地の現状を自分の目で確かめるため、被災地への出向を願い出たという。被災自治体はどこも混乱していたが、釜石市が受け入れを承諾した。これがすべての始まりだ。 
 東京を拠点に民間企業・団体の復興支援事業と被災地のマッチングを行う、一般社団法人RCF復興支援チーム(現在はRCF)という組織がある。RCFの藤沢烈代表は、早期から、土木・建築や産業面での復興だけではなく、コミュニティの復興が必要になると考え、そのための支援に向けた事前調査を行いたいと考えていた。特に、東京から物資を送付したり、アドバイスをしたりするだけではなく、支援スタッフが実際に被災地に住み込み、被災者の生の声を受け止めながら取り組む必要性を感じていたという。嶋田さんが被災地入りしていることを知った藤沢代表は、支援活動の調査を行うために現地に行きたいと相談をした。2人は同じ出身大学の先輩後輩の関係だ。嶋田さんはRCFが釜石で活動できるようコーディネートしてくれた。こうして釜石へやってきたRCFは、唐丹地区を中心にスタッフが住み込み、地域課題や住民のニーズを把握するための御用聞きから始めたそうだ。草刈りやラジオ体操、イベントの手伝いなどの共同作業の中で小さなニーズを拾い上げては形にし、地域住民との信頼関係を築いていった。関係性ができてくると、今度は復興事業に対する住民の生の声を丁寧に拾い上げ、市役所に伝えるパイプ役として機能していった。釜石市はこの活動こそ復興に必要な動きだと考え、唐丹地区だけなく釜石全体へ広めるべく仕組みづくりに動き出す。こうしてRCFの取組をベースに、釜石市全体のパイプ役を担う組織「釜援隊」が誕生した。
 
■人との縁をつなぎ、釜援隊入隊
(中村さん) 釜援隊に入ったのは、友人から声をかけられたのがきっかけだ。友人とは東京にいた時に知り合い、社会人向けのセミナーの運営を一緒に行う仲だった。震災後、彼は突然「釜石で復興の仕事をするんだ」と言い出し、本当に釜石市役所に就職した。正直、縁もゆかりもない釜石に行くとは思わずとても驚いた。その後も月に1回程度は連絡を取り合い、お互いの近況について話す中で復興支援の意義ややりがいを感じ始めていた。そしてある時、「釜石の復興をよりスピードアップさせるために人を集める。一緒に仕事をしないか」と誘われた。何かしたいと思ってはいたが瓦礫撤去などのボランティアはピンとこず、それまで被災地へ訪れたこともなかった。それでも彼と一緒に働きたいと思い、まずは友人に紹介された釜援隊の採用説明会に参加した。説明会には熱意を持った人々が集まっており、採用担当者が話す事業内容に改めてやりがいを感じた。釜援隊の魅力を知った私は採用試験の受験を決意し、そして今に至る。
 
(佐野さん)私は震災後、大学の卒業論文で官民一体の復興支援について研究するために、被災地で活動するさまざまな団体にインタビューを行った。当時釜石市の災害対策本部で指揮をとっておられた方にもお話を伺い、すごく熱意のある方だなと印象に残っていた。大学卒業後、一時は震災関連の活動から離れていたが、必ず東日本大震災からの復興が世界から着目されるだろうと思い、「東日本大震災」から私たちが学ぶべきことをもう一度研究したいと考えるようになった。以前インタビューに協力していただいた釜石市災害支援本部の方に連絡を取り、釜石で働きたいと相談した。室長から社会福祉協議会を紹介していただき、2012年の夏から2013年頭まで働いた。その後、釜石市役所の復興本部で1ヶ月ほどインターンをした。その時の監督者が、先ほど話にあった中村さんの友人だった。ちょうど釜援隊が立ち上がったばかりで、隊員と話をする機会もあった。しかし、その時の私は釜石で復興に関わるのではなく、次のステップとして留学を考えていた。2013年5月から2015年5月までアメリカに留学し、他国の視点から被災地や日本について勉強した。環境問題に対する取組と震災からの復興へ向けた取組はとても関係が深い。今後、社会が持続可能な発展をしていくにはどうするべきかを考えて行動に移す、環境問題を考える際の動きがまさに復興への動きと同じだと思った。留学期間の終わりが見えてきた頃、今後の働き方を考え始めた。私の強みは被災地で活動してきた経験だ。Facebookで釜援隊の4期メンバーを募集すると知り、釜石市役所でのインターンの折にお世話になった方の友人に連絡をした。採用試験期間はまだアメリカで留学中だったため、スカイプで面接をしてもらい、無事に釜援隊の第4期メンバーとして働けることとなった。震災直後はまさか自分がこんなにも釜石市と深く関わることになるとは考えていなかった。振り返ってみると、被災地でのボランティアに始まり大学での研究、釜石での復興支援と、「震災」が自分のキャリアの軸となっている。
 
■多様な人材が揃う組織
(中村さん)釜援隊は総務省の復興支援員制度を活用している。復興支援員制度とは、被災地で活動する人の報酬と活動経費を総務省が負担し、コミュニティの再構築を目指すものだ。この制度を活用しているのは釜援隊だけではない。被災3県で約300人がこの制度を活用して活動している(2015年7月10日現在)。隊員の年齢は24歳から50歳と幅広く、経歴や出身地などもさまざまだ。これは、1つの組織の中に多様な意見があった方がより良い取組が生まれるのではないかとの考えによるものだ。隊員のほとんどは市内のNPOや団体に配置されるものの、そこの専従職員となるわけではない。特定の地域に入り込む隊員もいれば、釜石全体をフィールドとし、地域資源を活かした観光プログラムを作成するなど1つのテーマに特化した活動をしている隊員もいる。また、目標設定やリソースマッチングなど、隊員をマネジメントする機能を内包する体制があるのも釜援隊の特徴の1つだ。週1回は隊員が集まり会議を行うのだが、経歴などの違いから隊員の視点や考え方が大きく異なるため、意見がぶつかることも度々だ。それでも、各隊員がそれぞれの現場で正しいと思う活動をしていけば、結果として街全体が良くなっていくだろうと考えている。釜援隊は多様なプレイヤーがいるからこそ、個人の意見を尊重しつつ、新しい意見を他の隊員と補完し合いながら活動を進められる組織だと思う。
 
■信頼関係が物を言う地域
(中村さん)地域に入ってすぐに自分の意見を押しつけても誰も聞いてくれない。まずは仮設住宅の周りの草むしりなど、簡単なお手伝いをしていく中で、地域住民に顔と名前を覚えてもらう時間をじっくり取るようにしている。釜援隊を創設してから小さな相談が来るようになるまで約半年を要した。地域に入り込む際は、市役所の方に地域のキーパーソンとつないでいただいた。釜援隊で小さなトラブルが起きた時は、市役所の方が調整に入ってくれたこともあった。私たちがコーディネートを行うためのコーディネートを市役所の方々がしてくれていたのだ。市役所のフォローがあってこそ、釜援隊が地域で活動することができるのだと思う。
 
(佐野さん)活動初期の頃に市役所が担っていた役目を、今は釜援隊のマネジメント機能が果たしている。隊員が新しい取組を始める際や新しい団体にコネクションを広げる際、マネジメントを担当する隊員がサポートを行う。釜援隊内にフォローする仕組みがあるからこそ、地域住民がコンスタントに釜援隊を受け入れられるのだと思う。
 
(中村さん)地域で活動するためにはまず、地域独自の作法を知る必要があると学んだ。地域住民と関係性がつくりきれていない段階で、新しい取組を提案してしまった時もあった。話に行く人の順番を間違え、「俺はその話を聞いていないぞ」と怒らせたこともあった。東京で仕事をしていた時は、仕事相手とは仕事の現場でしか会わないため合理性だけで進められたが、釜石ではそうはいかない。仕事上だけの付き合いは存在せず、必ず「人」対「人」で話を進める。どんなに良い話でも信用されなければ受け入れてもらえないのだ。目先の利益ではなく、地域のためになるかどうかも重要だ。地域住民の顔まで見えていて、その人たちの想いも知っている人こそが地域のために活動できると思っている。私はそんな人たちを応援していきたい。
 
■「幸せ」は自分で決めるもの
(中村さん)東京にいた頃は物とお金と地位があれば幸せだと思っていた。洋服がとても好きでよく買い物に出かけていたが、釜石でブランド服から離れた生活を送っていたら、服が買えなくてもたいしたことではないと気づいた。これは一例に過ぎないが、今まで必要だと思って抱え込んでいたたくさんのものを手放すことで、本当に必要なものを見つけられるようになった。これは釜石に来たからこそ気づけた。今は自分が幸せだと思える価値観を自分で考えることが大事なのだと思っている。
 東日本大震災で「死」と向き合わざるを得なかったからこそ、釜石には生きることを真剣に考えている人が多い。友達や家族を亡くした方は皆、「残されたことに意味がある。だから、良く生きなければならない」「子どもや孫の代まで見据えて、自分たちは生きていかなければならない」とおっしゃる。自分もそんな風に考えながら生きたいと思うようになった。生きることに対して真剣に考えている釜石の方々や、志を同じくする釜援隊員と一緒に仕事ができて、私はとても幸せだ。