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東日本大震災後のレポート

Report4 震災でつながった地域の固い絆

2015.09.15 10:30

【氏名】加藤直勝氏
【所属】松葉荘
【属性】企業
【県市】山形県鮭川村
【取材日】2015/06/24
【タイトル】震災でつながった地域の固い絆
 
【紹介文160文字】
山形県北部、最上地域の奥座敷、鮭川村の羽根沢温泉で旅館「松葉荘」を営んでいる。東日本大震災時は、もがみ北部商工会鮭川支部の青年部が一丸となり仙台で炊き出し支援を行った。その後、全国で初となる「被災者支援観光ツアー」を実施するなど、鮭川村で支援協力を行った。
 
【本文】
■地域に活気が生まれたきっかけ
 鮭川村はその名の通り、清流鮭川が村の真ん中を流れる緑豊かな農村地域であり、毎年秋になると鮭が遡上してくることでも知られる。この鮭川村と庄内を結ぶ街道のそばに、ひっそりと湯けむりをあげているのが今年で開湯96周年となる羽根沢温泉だ。温泉内には5軒の宿があり、昔は湯治客で大変賑わっていたのだが、時代の流れと共に湯治文化が廃れ、湯治客は減少していった。何とか羽根沢温泉の知名度を向上し、こうした状況を打開しようと、旅館組合内で何度も話し合ってきたが、単発的な企画ばかりで解決には至らなかった。地域を盛り上げていきたい気運はあるけれども、資金もなくもともと内気さのある地域のため、旅館組合ではなかなか実行には移せなかった。加えて祖父の世代は温泉宿同士のライバル意識も強かったためか、地域内で皆が協力して何かをやる雰囲気ではなかったようだ。
 世代が変わり、バブル景気が終わってしまってから震災前までは、どこも経営が苦しい状況だった。そんな折にもがみ北部商工会鮭川支部では、この地域の食材や良いものを見つけて活用し、商品開発をするプロジェクトを立ち上げた。川ガニを育て名物にしようなどアイデアはあったもののなかなか実らず、このプロジェクトは調査段階で終わってしまったのだが、これをきっかけに、行政と商工会、農協や民間団体、農業者が一体となって鮭川全体で盛り上げていかなければならないという気運がますます高まり、2010年度に「鮭川地域資源戦略会議」が発足した。この組織では外部専門家などのアドバイスもいただきながら、地域資源を活用した商品開発や、首都圏での村農産物販売、都市との交流事業などの取組が展開された。2011年11月には都市からの誘客に向けて鮭川をアピールするため、鮭の採捕・採卵・受精体験などを行うモニタリングツアーが実施され、羽根沢温泉も協力をした。これらのプロジェクトを通して地域に協力体制ができ、活気が生まれ、全体でまとまりが出てきた。
 
■3月11日 14時46分
 親戚の法事で隣の地区にいた。とても寒く、雪が降っていた。軽い雪だったのであっという間に積もっていく。ちょうど外を見ていたら、木に積もった雪が一気にドーンと落ち、落ちた瞬間にどっと揺れた。かなり激しい揺れだったので、どこの地震だと騒ぎになった。震度4~5くらいの揺れだったと思う。この地区では停電にはならなかったので、テレビを点けると仙台空港に押し寄せる津波が映っていた。大変なことが起きていると思った。9.11の時もまるで映画を見ているようだとショックだったが、今回も現実とフィクションの世界を混同してしまうような衝撃を受けた。けれども揺れは実感している。しかしこんなことが本当に現実にあり得るのかと唖然とした。
 鮭川でも多くの地域が2日ほど停電になっていた。電気が通っていないところは寒いしお風呂にも入れない。村で話し合い、羽根沢温泉を無料で開放することにし、村内放送でアナウンスをして村民にお風呂に入りに来てもらった。暖かくなるまでは本当に灯油などの燃料入手に苦労した。ガソリンスタンドには2時間の渋滞が起きた。それもエンジンをかけっぱなしにはできないので、前へ動いたらエンジンをかけて進んでは止める、を繰り返した。あの寒い中、車内で震えながら何百人もの人々が待っていた。どこのガソリンスタンドも道を遮るほどの列ができ、警察が交通整理に出動するほどだった。「日本海側の方は大丈夫みたいだ」との噂を聞いたので、鶴岡市温海の方まで行ってみた。たまたま開いていた小さな給油所へ行くと、本当に給油ができた。給油している間に宮城の方が来ているのも見かけた。ドラム缶を一杯積んで「また明日来る」と言っていた。スーパーマーケットには食糧を買い求める人が押し寄せた。「これから食糧が無くなる」という噂が流れたせいか、冷凍食品なりを買い占めて冷凍する人が多かったようだ。
 実は震災の時は羽根沢温泉も大変だった。お湯が通常の10倍・20倍も爆発的に出てきてしまっていた。松葉荘は間欠泉のため、常にお湯が出てきている状態だ。源泉に重い筒状の管を載せて囲いで止めて、分湯している。1ヶ月半から2ヶ月の間、その重い管ががんがん揺れ、ゴーゴーとものすごい音が鳴り、飛んで行くのではと思うほどだった。不純物も全部でてきてしまい、お風呂が砂だらけになった。
 
■鮭川の食材で温かい食事を
 商工会鮭川支部の故・前支部長や鮭川地域資源戦略会議の要となっている人物が、メンバーに被災地支援の有志を募り、若手人材として私にも声がかかった。何かしたいとは思っていたけれど、1人では何もできないと歯がゆい思いをしていたので、声をかけてもらえて良かった。
 まずは何をするかの相談から始まった。今支援するべきなのは、やはり温かい食事だろう。それから、鮭川のおいしいお米や野菜、缶詰など即席で使える食材、毛布などのあらゆる物を提供しようと意見が一致し、車に積んで行く物資リストを作成した。支援に行くにあたっては、どこに行くかが問題だった。2011年3月13日~14日頃には「海側は治安が悪く危険だ」と噂があり、テレビでも店の商品を盗む人がいるなどの情報が流れていた。皆家族を持つ立場であるし、危険な場所へ行くのは分かっているが、最低限の安全確保のためリスクは回避したいという思いが前支部長の頭にはあったろう。行った先で何があるかも、これから何が起きるかも分からない。情報収集を行った末、震災以前から交流事業でつながりのあった仙台市若林区役所に調整をお願いし、仙台駅東口の方にある連坊小学校に行くことが決まった。
 では何で移動しようか。皆を乗せて行くにはバスしかない。松葉荘のバスを使ってもらうことにした。また、なめこ屋さんが食材を運ぶ1tトラックを融通してくれた。現地へ向かったのは若手メンバーを中心に20人程だ。有志で集まったメンバーの中には、被災地へ行く人も行かない人もいた。きっとこのような時「行かなくちゃいけない」と思う人と、「自分の家を守らなくちゃいけない」と思う人の、2種類に分かれるのだと思う。どちらを選択するかは自分次第で、どちらが良い・悪いではないと思う。行かなかった人たちは地元で食材集めに奮闘してくれた。
 バスとトラックの計2台が連なって連坊小学校へ向かったのは震災発生からすぐ、まだ自衛隊もさほど現地に到着していない3月19日のことだった。山形県から宮城県へ通り抜けるには、関山峠は通れないと聞いていたので笹谷峠を通ることにした。実際に道路を走ると、バスで乗り越えられるか戸惑う段差ができていて、やはりこういう被害があるのかと思った。私の頭の中にはテレビで見た被災地の光景が焼きついていたので、全部めちゃくちゃになっているのだろうと思っていたが、仙台に到着してみると街中は「普通だな」というのが第一印象だった。ガラスが割れていたりヒビが入っていたりする被害はあったが、スーパーマーケットはどこでも人が並んでおり、鮭川と同じような状況だ。テレビの影響もあり悲惨な状況なのだろうと思っていたため、そのギャップに正直拍子抜けをした。しかし、後で仙台の方に聞いたところによれば、地震の当日はすべてのライフラインが止まって大変だったと聞いた。
 仙台に到着した日の夕方、連坊小学校でなめこ汁と炊き込みご飯を提供した。トラックを出してくれたなめこ屋さんのなめこ、メンバーが提供してくれた炊き込みご飯の素とお米を使った。仙台はコンクリートが多いので冷えるのだろう。私も外であの寒さを久し振りに体験したが、底冷えがして本当に寒かった。寒い時期なのに温かい食事をとれず、辛かったと思う。温かいものを提供すると、本当に喜んでもらえた。快く送り出してくれた妻に感謝したいし、バスの提供や炊き出しなどこの支援活動に協力できて良かったなと思う。被災地のために何かしたいと思っていたので気持ちも晴れた。
 状況から見るにもっと大変な地域もあるだろうと判断できた。出発前は炊き出しにどのくらい食材を使うかよく分からなかったので、連坊小学校で炊き出しをした初日の夜の時点でたくさんの食材が余っていた。そこで、次に行ける場所がないか、役所関係者を通して探してもらうことになった。初めは六郷中学校が候補として挙がったが、自衛隊が支援に来ているので六郷小学校へ行ってもらいたいと話が出た。きっと六郷中学校も食糧がなくて大変だったろうと思うのだが、何百食ではなく何千食の用意が必要な規模だったらしい。加えて、六郷中学校には亡くなった方のご両親などが集まり、皆そこで情報を待っている状況なので、行くのは憚られる。すでに連坊小学校の炊き出しで、準備した食材の半分しか残っていなかったので、規模が小さくて学校の生徒が集まっている六郷小学校の方が良い、との判断だったようだ。
 その夜のうちに連坊小学校の朝食用の炊き出しを作り、機材を置いて温めるだけの状態にしてから六郷小学校へ行くことにした。地元の消防団の方が迎えに来てくれ、深夜に連れて行ってもらい、朝食に間に合うようにすぐ炊き出しの準備に取りかかった。食材を全部使い切って、翌日の昼過ぎに山形へ戻った。
 
■心を癒す支援ツアーの受け入れ
 震災を受けて、体も心も痛めている人が多い。破壊された町の中で過ごすのではなく、1日でも2日でもこちらに来てゆっくり休み、楽しんでもらおう、心を癒してもらおうと、鮭川地域資源戦略会議は2011年6月に新庄市の農家グループ「ネットワーク農縁」と連携して、仙台市六郷地区の避難所に身を寄せる被災者50人を無料で山形県最上地方に招待する復興支援ツアーを企画した。田植え体験をした後、羽根沢温泉に宿泊していただき、温かい温泉に入り、決して豪華ではなかったが地元の青年団が焼きそばや焼き鳥、山菜などの食事を持ち寄り、大広間に集まって皆で食べてもらった。カラオケを歌ったり踊ったりするレクリエーションもあり、心身の疲労を癒やしてもらった。そんなツアーを何回か受け入れた。
 この活動を通して、震災後は仙台の方とも交流が増えた。毎年何回か松葉荘を訪れてくださる方もいる。今でもあの時はどうたったと震災の話をすることもある。私たちは、被害のあった場所へ行ってみるのは申し訳ないなという気持ちが強い。ところがその逆で、「この被害を忘れないように見てくれ」と仰る方はとても多い。「案内するから来い、ぜひ見に来てくれ」と誘われるので、いつかは行ってみたいと思う。
 
■大震災を振り返って
 商工会や青年会議所に所属しているが、こうした団体はすごい力を持っているなと感じた。青年会議所の若い方は、誰もが1度は被災地へ支援に向かった。それは商工会も同じで、地区ごとの若いメンバーは皆が現地へ行っており、それも1度きりではなく、現在でも支援活動を続けている人がいる。自営業であれば自分の仕事を放り出して現地へ向かったはずだ。普段は社会貢献活動と関わりがなくても、あの時は皆が自分にできる何かをしようと動いた。若い力は本当にすごい。社会に無関心な若者が多いと言われている時代だが、あの時は30代・40代の大概の人が行動を起こし、真剣に被災地の人々のことを考えたと思う。
 震災が起きたことで、この地域が1つになれると分かった。羽根沢温泉や鮭川村をPRするために、これまでさまざまな試行錯誤をしてきたが、なかなか地域が一丸となることができなかった。地震の被害はなかったが「困っている人々のために何かをしなくちゃいけない」という気持ちが地域を1つにした。現地から帰ってきてもその心は失われず、何かあれば協力したい思いが残っている。若い世代が「がんばるぞ!」と奮い立ったのも、困っている人がいたら皆で助け合おうという気持ちになったのも、これまでにない初めてのことだ。以前は夫婦2人で営んでいる小さな旅館の厳しい現状と心細さに嘆いていたが、今は違う。一度つかんだ手は離れない。大変な時に皆で協力してつながった絆が今でも続いており、いろいろな活動が盛り上がっている。固い絆で結ばれた鮭川村の地域の輪がある。私もその一員として、頑張っていきたい。