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東日本大震災後のレポート

Report10 辛さや悲しみを乗り越えて、未来への糧に

2016.03.31 17:30

【氏名】山根りん
【所属】東京国際大学
【属性】個人
【県市】埼玉県川越市
【取材日】2015/09/18
【タイトル】辛さや悲しみを乗り越えて、未来への糧に
 
【紹介文160文字】
東日本大震災発災当時、高校1年生(16歳)。母と一緒に高台へ避難中に津波にのまれ、母を亡くす。1年後に宮古市で行われた慰霊祭、2年後に東京の国立劇場で行われた追悼式で、遺族代表としてスピーチを行った。誰かの役に立つことができるのであればとの思いから、自らの被災経験を語り続けている。
 
【本文】
■3月11日 14時46分
 高校ではソフトボール部に所属していた。グラウンドで練習している最中に、突然大きな揺れが起こった。すぐに練習を中断し、顧問の先生が部員を集合させた。周りでは野球部やサッカー部、校舎内では吹奏楽部などほとんどの部が活動中だった。校舎内にいた生徒も避難のためグラウンドに出てきた。グラウンドでは地割れが起こり、水道管が破裂したのか水が湧いていた。怖がって泣いてしまう生徒もいて、「大変なことになったね」などと友人と話していたが、私は外にいたためか屋内にいた人ほどの大きな揺れを体験しておらず、あまり怖さを感じなかった。前日にも地震があったので「また地震か」とそこまで深刻には捉えていなかった。携帯電話を部室に置いていたので震源地や規模について調べることもできず、何が起こっているのか分からなかった。
 まずは顧問の先生の指示に従い、練習道具を片づけた。その間、先生方は携帯電話などで情報収集をしていたが、全然事態をつかめていない様子だった。
 「津波が来る」と聞こえてきた。確かな情報はなく3mと言う人もいれば、10mの高さだと言う人もいた。沿岸地域の学校では防災教育で津波のことを学ぶ。過去の津波被害についても知っていた。10mの津波と聞き、「堤防を越えてきちゃうよね?」「家が巻き込まれてしまう人もいるんじゃない?」とその場は騒然とした。私の父は当時カキの養殖を営んでおり、船で沖に出るため安否が心配になった。急いで部室に携帯電話を取りに行き、父に電話をかけたがつながらなかった。宮古市内でパートタイム勤務をしていた母とも連絡はつかなかった。兄は盛岡市の専門学校に通っており、内陸なので大丈夫だろうと考えた。
 学校は保護者が迎えに来たら生徒を引き渡し、その後は保護者が責任を持って一緒に帰宅するという対応をとった。中には自分で帰ると言った生徒もいたが、学校は保護者が迎えに来なければ帰せないと判断した。
 
■母と一緒に避難中、津波に遭遇
 母が車で迎えに来てくれた。連絡がつかなかったので「お母さん、よく学校まで来られたね!」と驚いた。私がソフトボール部員の中で一番早く迎えに来てもらったと思う。後から聞いた話だが、母は父や私を心配して、職場で早めに帰りたいと申し出ていたそうだ。「信号が全部止まっていて、ちょっとパニックになっているところもあるみたい」と母から市内の様子を聞いた。
 私は母と一緒に学校を出た。学校から自宅までは、車で30分ほど海沿いの道路を走る。海沿いと言ってもずっと堤防が続いているので、実際に海が見えるのはほんの少しだ。津波警報などのサイレンは鳴っていなかったが、信号が全部止まっていた。これまで経験したことのない地震だったし、停電もしているので、数日間は買い物に行けないかもしれない。食料を調達するため、途中で堤防沿いのコンビニエンスストアに寄った。他にもお客さんがいて、私たちはたわいもない会話をしながら商品を選んだ。停電でレジが使えず、店員は電卓で代金を計算していた。
 私がコンビニエンスストアを出ると、駐車場にあった何台かの車が勢いよく走り出した。どうしたんだろうと不思議に思っていたら、どこからともなく「津波が来たぞ!」と聞こえた。同時に、母や他のお客さんが店から外に出てきた。近くにあるJR山田線の線路が小高い山のようになっている。直感的に逃げなければと思い、私たちは無我夢中で走り出した。線路までたどり着くと、波がすぐそばまで来ていた。さっきまで買い物をしていたコンビニエンスストアはあっという間に波にのみこまれ、駐車場の車も全て流されてしまった。私たちはその光景を目の当たりにして、何が起きたのか状況が受け入れられず、放心状態で立ち尽くしていた。次の瞬間はっと我に返った。さらに波が迫ってくるかもしれないので、ここでずっと見ているわけにもいかない。少しでも高い場所へ逃げるため、線路に沿って皆で一列になり、山の方へ歩くことにした。母が大きなショックを受けた様子だったので、私は歩きながら「大丈夫、大丈夫」と声をかけた。母から返答はなかったが、小さく頷いたのが見えた。
 
■「死」を覚悟した瞬間
 山へ向かって歩いていると思ったのだが、気づいたら私は水の中にいた。目を開けられず、どこが海面なのか、何秒経ったのか何分経ったのかも分からなかった。目をつぶりながら「たぶん死ぬんだろうな」と思った。死を覚悟した瞬間だった。このままでは死ぬという先入観や、もしかしたら生きられるかもしれないというちょっとした希望など、そうしたことを考えられるくらい余裕があったのかもしれない。でもそう考えた瞬間にとても息苦しくなり、パニックになった。どこが海面なのかは全く分からなかったが、無我夢中でもがいていると奇跡的に海面まで上がってこられた。後に周りの人から、部活動の練習後に着ていたナイロン製の上着が空気を含んで浮き輪の役割を果たしたのではないかと言われた。
 海水をたくさん飲んでしまったので息切れ状態となり、海面で浮かびながら一瞬呆然としていた。辺りは見渡す限り水平線が続き、空と海の境目が分からなかった。建物の2~3階ほどの高さまで水位が上がっていたと思う。周りには屋根や板などがたくさん浮いていた。コンビニエンスストアの近くにある5階建ての温泉宿泊施設が見えたので、あの辺りから流されてここまで来たのだと思った。
 まず命は助かった。しかし、これからどうしたらよいのか。こんなに水深のある場所で泳いだことはないので、このままだと溺れ死ぬかもしれないと思った。そこでひとまず流されてきた屋根の上に避難した。再び辺りを見渡すと、山田線の奥に家屋とそこに打ち上げられて助かった人がいるのが見えた。母がいるかもしれないと思い、「お母さん!」と何度か叫んだが、返事は聞こえてこなかった。
 温泉宿泊施設の屋上からスタッフの方々が「こっちまで泳いで来られるか?こっちに来い!」と大声で呼びかけてきた。勇気を出してまた水の中に戻り、泳いで何とか宿泊施設までたどり着いた。建物の屋上から掛けられた垂れ幕を利用して屋上まで登れるか試みたが、登れなかった。そこで窓から建物に入れないかと考えた。津波でガラスが破られた窓があるかもしれない。タイミングによっては引き波にさらわれてしまう可能性もあり怖かったが、第3波や第4波が来たら、今度こそ危ない。勇気を振り絞って、壁伝いに空いている窓を探し出し、何とか建物内に避難できた。
 温泉宿泊施設だったので毛布や飲み物があり、そこに避難した人々と一緒に一晩を過ごした。夜になっても何回も余震があり、津波が来た。下層階はすでに鉄格子しか残されていなかったので土台が不安定になり、建物は余震によって激しく揺れた。私は海水を大量に飲んだため、その晩は高熱が出て具合が悪くなってしまった。施設にいた方々は家族の安否を確認できず大変な状況のはずなのに、薬をくれるなど気にかけてくれた。多くの優しさをいただいて、本当に感謝の気持ちでいっぱいだった。
 
■避難したビルから自力で脱出
 夜が明け、屋上から辺りを見渡すと、驚くほど良い天気で海は穏やかで、とても綺麗な眺めだった。高い建物が無くなり、海水が辺り一面を覆っていた。町には本当に何にも無かった。その光景を見て美しいと感じた反面、もう自分の知っている町ではないのだと思った。起きていることが現実だと信じられなくて号泣してしまった。何もできなかった自分はなんて無力なんだろうとも思った。母が亡くなったかどうかは分からなかった。「大丈夫、大丈夫」と自分に言い聞かせた。温泉宿泊施設にいた方々は、おそらく私たちが津波に巻き込まれ、流される様子を屋上から見ていたのだろう。助けられなかったという思いからか、声をかけ励ましてくれた。
 自衛隊らは隣町の山田町で起きた火災の対応に追われ、無事が確認できている私たちのところへの救援は当分来ないだろうと情報が入った。実際に自衛隊のヘリコプターが私たちのいる建物の上を通り過ぎていくのを見た。このまま温泉宿泊施設にいたら、いつまで救助を待たなければならないのか分からない。波が引いてきたので、自力で脱出するしかないと考えた。男性従業員が協力して屋上から降りられるようにしてくれた。皆で下りてみると、道路など全てがヘドロだらけだった。その後、近くの避難所まで歩いた。
 避難所に入った瞬間、重苦しい空気を感じた。そこの人々に声をかけられるような雰囲気ではなかった。すでに大勢の避難者でいっぱいで、途中から来た私たちが受け入れてもらえるのかと不安を覚えた。電気がつかないので暗く、静かで、空気は重く、誰も話そうとはしない。これまで感じたことのないような雰囲気だった。誰かの話し声がぽつり、ぽつりと聞こえた。地元の避難所ではなかったので知り合いもおらず、私は黙っているしかなかった。おにぎりや温かい味噌汁が配られると、わずかではあったが避難所内に会話が生まれた。食べた瞬間、とても美味しくて生きていると実感した。12日の夜も大きな地震があった。ご飯を食べて少しだけほっとしていたが、その地震によって再び緊張感が高まり、避難所はピリピリした雰囲気になった。建物が古かったので崩れたらどうしようと不安を感じて外へ様子を見に行く人もいた。消防団がたくさん出入りし、そわそわして落ち着かなかった。何かしたかったけれど、何もできない自分が悔しかった。
 避難所でたまたま同じ地域に住む方と知り合った。震災以前に面識はなかったが、地元まで一緒に歩いて行くことになった。途中、友人の家が無くなっているのが分かった。たわいもない会話をしながら歩いたつもりだったけれど、そうでもしていないと精神的に成り立たない状況だった。だから、1人ではなく、2人でいろいろな話をして気を紛らわしながら帰れて良かったと思った。
 
■地元で父と再会、母の捜索開始
 地元に戻ると家屋が残っており、大きな被害はない様子だった。小さな地域なので、皆が私と母を知っている。地元の人に出会った瞬間に「お母さんは?」と聞かれた。それまで初めて出会った人と過ごしていたので、母については一切話さなかった。母のことを聞かれた時、申し訳ない気持ちと助けられなかったのかなという思いでいっぱいになった。その後すぐに会った親戚に対しても謝ることしかできなかった。親戚は何も聞いてはこなかった。自宅に着くと車はなかったが、生活の形跡があったので、父は無事だったのだと思った。父が帰るまで親戚がそばにいてくれた。
 父は私たちを探しに行っていた。まず学校へ行き、母と私が学校から一緒に帰宅したと知った。一緒にいると思ったが、簡単に探せる状況でもなく、どこから手をつけたらよいのかも分からず、何もできないまま帰ってきたそうだ。自宅に戻ると私が帰っていたので、安心したと言った。父に会い、申し訳ない気持ちがますます大きくなって泣いてしまった。泣き止んだ後にこれまでの状況を説明したが、謝ることしかできなかった。
 その後、2人で母を探しに行くことにした。私と一緒に流されたのは事実なので、希望は持っていたけれど、安置所を確認することにした。地震から約5日後、宮古市内に何ヶ所かあった安置所を回り母親の特徴を伝えた。もし見つかれば連絡をもらえることになった。もしかしたら連絡ができる状況ではないかもしれないので、定期的に来てくださいとも言われた。初めて安置所へ行った時は、警察官がたくさんいて、とても重い空気を感じた。捜索1日目は、母は見当たらなかった。
 捜索を開始してから2日後、再び安置所へ行くと、似ている特徴の方がいると言われ、確認を求められた。父に「一緒に入るか」と聞かれ、最後に母を見たのは私だから、自分の目で確かめようと思った。父と一緒に安置所の中に入ると、そこにはおびただしい数の亡くなった方が並んでいた。映像などでよく見るようにブルーシートや毛布に包まれ、はっきり言ってご遺体として扱われていないように感じた。多くの方が面会に来ており、泣いている方や、信じられない様子で何度も確認をしている方がいた。正直、ここに母がいるとは思えなかった。
 「この方ではないですか」と確認されたのは、まぎれもなく自分の母親だった。苦しそうな顔をしていた。あの時、私もとても苦しかった。母も同じ思いをしてしまったのかなと思った。顔や服装、手術跡を確認し、「これが母親です」と言葉にした時、母の死を実感した。これが現実なんだ。とても悲しく辛かったけれど、それは私たちだけではなかった。たくさんの人が同じような思いをしている。辛さや悲しみの大きさ、親戚の亡くなった人数に関係なく、誰もが「辛い」「悲しい」と言える状況ではなかった。そう考えると、ずっと母のそばにいてあげたいという思いより、少しでも前に進めるよう、次のご遺体を運ぶ場所が確保できるようにしてあげたいという思いが強くなった。
 母が亡くなったと親戚や近所にお知らせした。棺が足りなくなっていたのだが、運良く間に合い、母を納められた。小規模ではあったがお葬式も挙げることができ、2週間ほど待ったが3月中には火葬ができた。兄も地震から1週間後には地元に帰れたので、家族全員で母を見送ることができた。
 
■父との避難生活と学校再開
 震災の影響で学校がなかったので、父と自宅で過ごす生活が続いた。外が明るくなったら起きて、暗くなったら眠りにつく。プロパンガスだったため止まることはなく、煮炊きができた。備蓄の食材や避難所で余った物をいただいて避難生活を乗り切った。水道は長期間止まっていたので、給水車に並んで水を確保していた。約1か月後、ライフラインの中では電気が一番早く復旧した。
 5月の大型連休明けに学校が再開した。学校は避難所として使われていたため、なかなか始めることができなかった。始業前に一度学校へ行き、母が亡くなったと報告すると、学校として取った対応について先生方も責任を感じていたようだった。先生方は自分の家族の心配もあるのに学校に居なければならなかったし、さまざまな辛い状況を受け止めなければならず、大きなプレッシャーの中で本当に辛かったと思う。担任の先生は「無理して笑わなくていいよ」といつも私を気にかけ、支えてくれた。気丈に振る舞うように見えたのかもしれない。この先生が担任で良かったと思った。
 
■経験を自分の言葉で語る
 震災を経験して自然に対してとても無力だと思ったし、当時の自分は子どもで自衛隊や警察官のように先導を切って何かできるわけでもなかった。話を聞かせて欲しいというご要望にお応えすることで誰かのために自分が何かできるのであればとの思いから、最初の取材を受けた。すると、たくさんの方から応援メッセージなどをいただき、聞いてくれる方がこんなに大勢いるのだと思った。若い時に母親を亡くした同じ境遇を書いてくれる方もいて、自分だけではない、頑張ろうと感じ、メッセージは私にとって励みになっていた。
 しかし、たまに取材が嫌だと思う時もあった。どうしても答えたくない質問や都合の良い回答へ誘導されるような場面もある。相手の満足する言葉や表情が分かり、テンプレートのような言葉を話し続けていた。自分が語る言葉が自分のものではない気がして、言わされている感覚を覚えた。話すことに意味があるのだろうかと疑い、自分の言葉が分からなくなってしまった。震災から2年ほど経った頃、反応してくれる方々に失礼ではないかと感じ、だんだんと取材をお断りするようになった。誰かに作られた言葉を話して、本当にこれが自分のしたかったことなのか。最初に自ら動いて語り始めたわけではなかったから、こうした心境になってしまったのかもしれない。
 震災から3年が経った頃、関わっていたあるNPOで母の日に手紙を書く企画があり、書いてみないかと誘われた。そういえばこれまで一度も母に手紙を書いたことがなかった。もしかしたら本当は母親の死に向き合っていなかったのかもしれない。良いきっかけだと感じた。また、自分の言葉とは何だろうと考えていた時期だったので、もしかしたら答えが見つかるかもしれないと少しの期待もあって手紙を書くことにした。
 自分の中で閉じ込めていた感情や言葉と言えば大げさかもしれないが、本当は母にして欲しかったこと、一緒に過ごして見えてきた父の嫌な部分、なぜ母はこの人と結婚したのだろうという疑問、父とは衝突の方が多いけれど2人でどうにかやるしかないと感じていることなど、頭に浮かんだことを書いた。取材などのように他者に伝えるためではなく、母への想いを素直に文章で書いてみて、自分の言葉とは誰かに聞かれたから答えるのではなくて、その人に対しての想いそのものでよかったのだと感じた。自分が言いたかったことが分かって、素直になれたのかもしれないと思った。その後、同じNPOが企画した震災に関する講演会で、お話させてもらった。これまでとは違い、自然と涙が溢れてきて初めて泣きながら話した。経験を説明するのは簡単だけれど、これまで自分は考えや感情を上手く伝えられていなかった。「私」の印象をどうしても気にして、頑張っていて、明るくて、強い「私」を演じていなければならなかった。そうした自分に気づけるとても良いきっかけだったと思う。
 
■大震災を振り返って
 震災が来るまで、私は普通に明日が来ると思って生活していた。でも震災を経て、それは当たり前ではないと気づいた。発災前日は高校入試で学校が休みだった。母から一緒に買い物へ行こうと誘われたのに、進路のことなどで喧嘩したため誘いを断り、遊びに出かけてしまった。そして、母と喧嘩をしたまま震災を迎えた。母が亡くなったと分かってから、後悔しかない。車での移動中にもっときちんと海に注意を払っておけばよかった、学校から出なければよかった、母に気持ちを素直に伝えていたらよかったと、後から考えることはきりがない。私は母に感謝の言葉を伝えられなかったし、親孝行もできなかった。いくら後悔しても、いくら涙を流しても、母は帰って来ない。自分を大切に思ってくれる家族は大事にするべきだと感じている。そして、もしも伝えたいことがあるなら、お互いに素直に伝えるべきだと思う。素直になれない年頃もあると思うし、大人であってもなかなか難しい。それでも、家族に伝えたいことを伝えるのは大事だという気持ちを持っているだけでも違うのかなと思う。
 震災は自分のやりがいを見つけるきっかけになったという話も聞く。上京して、震災をテーマに活動する団体の学生と話した時に、震災がなかったら今の自分はなかったと思うと言っていた。私は勝手に、都会の人々はいち早く震災を忘れていくのではないかと思っていた。東北の人々は忘れられないように頑張ろうと思っていたけれど、たくさんの人に出会って、東北を思ってくれる人々が大勢いるのだと分かった。東北の被災者を思ってくれる人がこんなにいるのだから、震災は悪いことや辛いことばかりではなかったと感じる。私も震災が起こらず、高校卒業後そのままどこかに就職していたら、今の自分はなかったと思う。新しい挑戦をすると、生きていてよかったと感じるし、今は震災を経て得られたものの方が多いと思える。私は母に生かされた気がする。父も同じように感じていると言っていた。だから母の分も頑張ろうと思う。
 私たちは自然には敵わない。自然を前にして人間にはどうにもできないことがあって、人間の生死なんて簡単に左右されてしまうのだと思った。津波のあった翌朝、あまりにも綺麗な風景が広がっていて腹が立った。自分はこれまで自然に生かされていたのだと感じた。震災でたくさんの人が悲しみに包まれ、とても辛い思いをした。同じような出来事は二度と起こって欲しくないが、それでも乗り越えていこうと現在こうして復興が進んでいるということは、与えられた試練だったのではないか。この震災がなくても、同じような試練がどこかで起こったと思う。辛さや悲しみだけではなくて、未来につながるような出来事だったのだと感じている。もっと皆で協力し、私たちの町はよりよい町になったと世界中へ報告できるようになることが、被災地を助けてくれた方々への恩返しになると思う。私たちの経験は次への糧にして欲しい。